サイバー老人ホーム

248.「窮民妙薬」1


 およそ近代医学では細菌性の病気はほぼ制圧したといわれている。一方、現在は、メタボを初め、生活習慣から派生する病気が今は主流となっている。この事からこれをこれらを食源病とも言われ、取り分け富裕層に多く、欧米ではこれが人間の体かと思われるような強大な尻を揺らせながら歩いている姿が目に止まる。

 かつて、「人生五十年」などといわれていたのはつい五十年ほど前のことであり、これは、江戸時代、将軍様を始め諸大名の殿様の士族が例外なく短命だった事と相通ずる所である。

 然らば我が百姓の祖先たちは如何であったかと言うと必ずしも短命とはいえない。
 大凶作のあった天保七年、我が故郷で飢え死にした人の年齢が記された古文書が残っており、これによると村人総数二百二十人余りに対して、飢え死にしたもの総数が三十人、この内年齢不詳と子供を除いた十九人中、六十歳以上が十四名であり、最高齢者は九十才であった。二十代・三十代の働き盛りはゼロである。

 この時代、我が故郷の年齢構成は定かではないが、凶作などの場合、高齢者から死ぬと言う事を聞いているが、この段階で多くの年寄がいたと言う事は、あながち短命であったとは思えない。

 ところで、江戸時代の人たちがどのような病気に犯されていたかと言うと、もう一つはっきりしない。

 映画や芝居で、突然倒れこんだお女中が、「持病の癪(しゃく)が起きて」と言うのはよく見る風景はである。

 然らばこの「癪」とはいかなる病気であったかと言うと、胸や腹のあたりに起こる激痛の総称で、別名「さしこみ」であり、明確な発生原因があったわけではないと言う事である。

 多分、当時は消化の悪い乾物を主な食材にしていたことから、胃痙攣などの急性の病気だったのだろう。
 もっとも、この「胃痙攣」なる病名も近頃なくなって、正確には「上腹部に起こる発作)性の痛みの総称で、胃潰瘍・胆石症・虫垂炎などに付随して起こる症状で、単一の疾患ではない」と言うことである。

 ところで、江戸時代の医師は、和方・漢方・蘭方法と様々な医学があったようだが、八代将軍吉宗のころから、技術導入を目的としたオランダ語の習得を認めた。その結果「解体新書」などが翻訳され、西洋医学が広がっていったと言う事である。

 ただ、西洋医学を正式に学んだ医師と言うのは、黒澤明監督の「赤ひげ」先生みたいな医師もいただろうが、とても、八っつぁん、熊さんや、我が百姓の田吾作どんがお目にかかれる人ではなかったが、総じて医師の身分と言うのは今ほど高貴なものではなかったと言われている。

 そこで、江戸時代の人はどのような病気を患っていたかと言うと、寺子屋教科書のベストセラー「庭訓往来」によると、脚気、中風、上気(のぼせ)、頭風(頭痛)、赤痢、内痔、咳病(がいへい)、病歯、癲狂(てんかん)、癩病、とここまでは分かる。

 更に、荒痢(こうり=渋り腹)、内症(心痛)、膜(目の病)、傷寒(チフス)、傷風、虚労(疲労または体力・気力の衰え)と多彩である。

 次にこれもよく聞く病である瘧(おこり)病、このおこりとは「一定の周期で発熱し、悪寒やふるえのおこる病気」ということで、マラリア性の熱病の昔の名称であったらしい。

 更に、「痞(つかえ)」と言うのがある。これは精神的悩みのため、胸が苦しいことで、差し詰め今で言う躁鬱症のようなものであったのだろうか、何時の時代も夫々に悩み多き事であったと言う事である。

 江戸時代、こうした内臓疾患に加えて、皮膚病に多くの市民が悩まされていたらしい。
 「庭訓往来」によると、「癰丁(ようちょう)の腫物」と書かれているが、この「癰丁」とは、黄色ブドウ球菌が原因で起こる隣り合った数個以上の毛包(おでき)の化膿性炎症で、その部分は赤く盛り上がり、痛み・発熱を伴う」腫れ物と言うことである。

 当時、「癰丁」に限らず、「湿瘡(しっそう)」、一般的には、単に瘡(かさ)といわれた皮膚病が蔓延していた。この瘡とは、疥癬虫の寄生によっておこる伝染性皮膚病で、かゆみが激しく、指の間やわきの下、更には陰部など皮膚の柔らかい部分を冒すものである。

 これらが蔓延したのは、江戸を中心に銭湯が普及して江戸庶民にもてはやされた事によると言われている。

 しかし、子供の病気はなんといっても疱瘡であり、当時は生まれた子供が疱瘡を無事潜り抜けたか否かが、生まれて来る子供の宿命でもあった。そのため、疱瘡予防の様々な薬が出回り、鱧(はも)の干物、ホトトギスの黒焼き、兎の肉、鷹の白糞等の他、疱瘡除けの祈祷などが大いに流行した。

 ところで、こうした病気がどうして起きるかについて、「庭訓往来」には、次のように書かれている。

 まづ第一が、「房内過度」を上げている。この「房内過度」とは、淫事にふけることということで、病気に掛りたくなければほどほどにと言うことだろうか。

 続いて、「濁酒酩酊、睡眠昏沈、形儀の散動(身の立ち居振る舞いを荒くする=精神分裂)、食物の飽満、所作の辛苦(過労)、恋慕の辛苦」であり、今の時代の生活習慣病は昔から言い当てていた事に成り、私のとっても聊か耳の痛い内容である。

 更に、「長途の窮屈、旅所の疲労」と、余り出歩かない事が肝心、だからと言って、小人閑居すれば、「閑居の朦気」になり、更には、「愁嘆の労傷(鬱病愁いに沈み)」なるから用心しなければならないと言う事である。

 「欠乏の失食(栄養不良)、深更の空腹」は今の時代では心配御無用でむしろ過食の肥満を憂うるところである。

 最後に、「塩増の飲水、浅味の熱湯(たぎる湯を多く飲む)、寒気の薄衣、炎天の重服、皆もって禁忌なり」と戒めている。

 ところで、我が故郷に、「窮民妙薬」と言う全部で百十種(目録には百十七種)の療法が記され仮綴の横帳が残っている。

 この、「窮民妙薬」を調べてみると、元禄六年(1693)、徳川御三家水戸光圀が藩医穂積甫庵に命じて、出版させた本と言うことで、我が祖先たちは、この本をどこかで見せてもらい、必死に筆写したと言う事であろう。

 この冒頭に、「大君、予に命ずるに山野貧賎の地には医もなく薬もなし、下民病んで臥す時は自ずから治するを待ち、冶ざる者或は死し、或は廃人と成る。

 是皆非命なり、求めやすき単方を集めて是にあたへ、是を救えと予謹みて命を承って其の病、其の所に求め易き薬方三百九十七方編集して、窮民妙薬と名付け遣りて深山野居の者に之を与う。庶幾(こいねがわくば)済民(人々を苦しみから救うこと)の一助ならんか。元禄癸酉歳 常陽水戸府医士 穂積甫庵宗與」とある。

 二十七年ほど前に復刻版が出ており、これを見ると、百二十九の諸症状の薬又は治療法が記されている。当時の我が祖先たちにとってはまさに天からの授かり物のお思いでこの横帳を見ていた事だろう。(08・09仏法僧)