サイバー老人ホーム

277.救荒食物3

 更に、「すぎな、父子草、桔梗の葉、ほうずきの葉、さいかちの葉、右は茹でて水にひたし置きて用よ」とある。

 この中で、「すぎな」と云うのは、「つくし誰の子スギナの子」と童謡にもあるように、早春、俗に「つくし」と呼ばれる胞子茎が出、のち栄養茎が出る。「栄養茎は緑色で枝を輪生し、胞子茎は食用となり」とあり、、栄養茎は利尿薬にするということであるがとても食べられる代物ではない。したがって、ここに出てくる「すぎな」とは、つくしのことを指したのであろう。

 なお、「さいかち」の豆のような実は、皀莢(「さいかち」または「そうきょう」と読む)という生薬で去痰薬、利尿薬として用いられた。
 またサポニンを多く含むため古くから洗剤として使われ、莢(さや)を水につけて手で揉むと、ぬめりと泡が出るので、かつてはこれを石鹸の代わりに利用したと言う事だが、父子草も含めて食べられるとは書いてなく、我が故郷にサイカチがあったかどうか記憶にない。

 そして、「藤の葉(産婦は食べからず)、あざみ、父子草、あまなの根、右は灰汁(あく)湯に茹でて水にしたし置きて用ゆ、あまなの花葉は少し乾して用ゆ」とある。

 この中で、「あまな」とは、ユリ科の多年草で、鱗茎からニラに似た葉を二枚出し、春、暗紫色の筋のある六弁の白花を開き、茎の部分は食べられるということだが、これも信州では見た事もない。

 他に、「のびるの根葉、根は良く茹でざれば、えごくて用い難し、飢えをしのぐに至りて宜しいという。楮(こうぞ)の葉是は水にしたし置きよく揉みて、握り乾かし、水(火?)に焙りて用ゆ」とある。「飢えをしのぐに至りて」とは、究極の場合に於いてと言う事だろうか。なお、楮とは、和紙の原料となる木である。

 そして、「松葉、是は搗(つ)き砕き、流れ水に浸す事三四日にして、渋気去りたるを蒸して干し上げ、石臼へかけ、粉にして用ゆ。右を一斗に豆の粉一升も加え用ゆれば、甘み有りて用ひよしとぞ。尤も楡の汁を掛け用ゆれば、大便ひけつる事なし」

 更に、「松葉粥というは、松葉の粉三合に米か麦の粉一合、塩と楡(にれ)の汁を程よく加えて煮る也。米麦の粉無くとも、米糠を入れてよく煮て用ゆ」

 戦国時代、各地の城砦には松が多数植えられていたが、これは、篭城した場合、最後の食料として松の葉を食料として命を繋ぐためといわれ、この松葉粥などとして食い繋いでいたのだろう。

 ただ、「草根、木の葉の実を食し若し毒にあたるか、気分悪しくば、白米挽き割り粥をよく煮て湯のようにして、焼き塩か焼き味噌を入れて度々吸わせよ。惣じて飢える事甚だしき者は脾胃に塩と穀(こく)の気と共に絶ゆる故に死する也。塩さえ絶えず食すれば、右の害なし。依って、味噌と塩との貯え、凶年には別して肝要也」と書かれている。

 そして究極の救荒食物とも言える「藁餅」と言うのがある。この藁餅は、天明三年の飢饉の際、幕府は窮余の一策として府令により藁餅の製造方法を全国に広めたものである。
 信州諏訪郡乙事村(現諏訪郡富士見町)の「万年書留帳」の天明三年の項に、
「当年夏中天気不順にして、大凶作に御座候(中略)。右体大凶作に御座候へば、秋過ぎより扶食なし。之に依り豆の葉餅、蕎麦から、同目くそ、赤わた、ところ、こごみ扶食に致し候。

 豆の葉食いよう、青き葉を取り日に干し、粉に致し食べ申し候。蕎麦から(殻)細かく切り、湯にて灰汁を取り、粉に致し食べ申し候。

 藁餅夫食に致し候。わらを細かに切り、日に干し、立ち臼にて粉に致し、わら粉一升え五穀の内何れ共二合宛入れ候へば宜しき食事也。秋過ぎより來五月迄人々之を拵え、食物と致し候而、大きに諸人之助けと成り候」と詳細に書かれている。

 ただ、豆の葉でも、蕎麦からでも何れも食される代物ではない。稲藁と言うものは噛むとほのかな甘みがするが、家畜の餌ならいざ知らず、これが人間の食物になったとは全く知らなかった。

 もっとも、我が故郷で、天保凶作の折、「ふすま 一合十三文」という記録があり、「ふすま」とは、小麦を粉にひいたあとに残る皮で、飼料や洗い粉に用いたものであるが、これすらも食用としていたのだろうか。

 我が祖先たちはこうした厳しい時代を生き抜いてきたわけで、近頃に飽食の時代を見たらどのように考えるだろうか。

 日本人の主食は元来米である。したがって、米にまつわる言い伝えは多く残されているが、近頃、この主食の座を明け渡しているようである。然らば、いかなるものが主食かといわれると、明確にこれだと言えるものがなくなったような気がする。

 その原因は、嗜好が多様化して、単純に、一つの食べ物に限定できなくなったことに因るが、これによって、多くの食べ物が無駄に捨てられるようになったのではなかろうか。
 今世界のどこかで、かつて、我が祖先が這いずりまわってかき集めた「救荒食物」と同じようなものによって、辛うじて飢えをしのいでいる人たちがどれだけ居ろうか。

 今更、救荒食物を食べろと言っても始まらないが、やがて、世界的な食糧不足が到来し、野に食べられる物をあさる時代が押し寄せてくるとも限らないと思うのである。(09.12)

天保凶作飢饉記「長野第87号」飢饉災害特集号:長野郷土史研究会
「凶作一件穀値段萬覚え帳」:信州佐久郡鎰掛村書き置き