サイバー老人ホーム

276.救荒食物2

 戦後、主食に代わる物を代用食と云ったが、江戸時代は「救荒食物」と云った。江戸時代、畑では五穀と云われる穀物が主に作られていたことは、別掲「食い扶持」で取り上げたとおりである。

 然らば、江戸時代に五穀以外の野菜はどの様なものが栽培されていたかと言うと、前述の「凶作一件穀値段萬覚え帳」に、「なす種、唐からし、うり、かぼじゃ、夕顔種甲州上州より調(ととの)え蒔き申し候、たばこ種右同断」と書かれているが、戦後の食糧難に「救荒食物」として大いに貢献した芋の類は書かれていない。

 一節のよると、ジャガイモは、慶長年間に、スペインとの交易が開けた折、インドネシアのジャカルタを拠点にしていたスペイン人が、長崎の出島に伝えたのが始まりといわれている。そのため、ジャガ芋の名前もジャカルタから運ばれ、当時「ジャガタライモ」と呼ばれていたことに由来していた。

 島崎藤村の「夜明け前」によると、明治初年にはジャガイモが栽培されていたと描かれているので、少なくとも江戸末期には我が故郷でも栽培されていたのではなかろうかと思っている。

 ところで、前出の「代吉日々覚え帳」、天保七年十一月二十日の条に、「くぬぎの実(どんぐり)三十〆めにて二分一朱位、米九斗代三両、百文につき四合位、酒一合三十二文位前代見聞の事なり、甚だ高値に付き記し置き候」と書かれている。

 米は、その後、一両に五斗二升、天保八年四月には「米百文に三合」まで値上がりしているが、「くぬぎの実」が食べられていたと言う事は知らなかった。我が故郷の場合、どちらかと言えば広葉樹林帯であり、くぬぎの木はいたるところにあった。

 以前読んだ本で、我が故郷より、やや北に下った地域で、どんぐりの食し方を書いた本を見た事があるが、食せられたという言い伝えもなく、書き残されたものを初めてお目にかかった。

 天保凶作の折に、信州松代藩(真田家)から近隣諸郷に配布された「天保七年稀の違い作に付き、御上様より品々食物触書の写」という文書が残っている。

 「御殿様より、天保八年正月、食物の儀刷り物致し、御領分中の村々へ、一枚二枚宛御出し、写し左に、凶年に辺土扶食(百姓の食べ物)に乏しきもの糧とすべき品々或いは難色の害なからん為め、穀類に次いで暫く飢えをのがるべき食物、その外の心得を示す」となっていて以下に累々と記載されている。

 「葭(よし)の根同若芽、蒲の根同若芽、菰(まこも)の若芽、またたび、いたどり(はらみ女は食べからず)、あけびの若芽、つゆくさ、はこべ、つばなの根同若芽(小児に益有り)、雨ふり花の根葉、野にんじん、おんばくの根(黍藁と混ぜ食べからず)、右品々茹でて用ゆ」

 ここで、「イタドリ(虎杖)」と言うのは、今でも川べりなどに見かけるが、子供の頃、春になると土手から芽を出したばかりのものを採って、良く食べたことがある。

 取り分け美味いものではなかったが、酸味があり、イタドリに限らず酸味のある「すから」なども果物代わりに食べた。ただ、「イタドリ」が、はらみ女が食べてはならないものとは、根は漢方で緩下・利尿・通経剤として効能があることからきているのかも知れない。

 植物図鑑によると、「葭(よし)」、葦とも同じだが、イネ科の植物と言うだけで、食されと言う事はどこにも見当たらない。次の「蒲(がま)」は、花粉は生薬としては「蒲(ほ)黄(おう)」と呼ばれ、外用で傷薬となり、内服すると利尿作用、通経作用があるとされるが、食されるとはかかれていない。

 「またたび」は御存知猫の好物であるが、黄色に熟し食べた事もあるが、弦性木は猿梨に似ているが味はもう一つだった。あけびは、前述のように実は食べた事はあるが、若芽を食した事はない。ただ、木部は利尿・鎮痛剤となるとの事である。

 「つばな(茅花)」、別名チガヤとは、イネ科の多年草で、俗称猫じゃらしで、花穂や根は甘みがあり、根を乾燥して消炎・利尿・止血などに用いられる。また、滋養強壮にもよいとされているということで、噛むと甘みがあり、子供のおやつ代わりに噛んでいたと言う事で、「小児に益有り」と言うのが肯ける。

 次の「雨ふり花」とは、ヒルガオの異名となっているが、袋状の花で東信濃ではホタルブクロのことを「雨降り花」、または「雨降りトッカン花」と言っていたそうである。私に故郷では、トッカン花といい、膨らませて手のひらで叩くとトッカンと音がするのでこう呼んでいた。しかし、この花の根と葉が食されるとは知らなかった。

 「野にんじん」は、オタネニンジンといい栽培されてもいるが、野生のものを「野にんじん」といい、今でも山菜として食されていると言う事である。

 「おんばく」はオオバコのことで、オオバコが薬草(葉・種子を利尿・咳止め薬)である事は聴かされていたが、その根が食されたというのは聞いた事がない。ただ、花穂を根本から取り、二つ折りにして、二人が互いに引っかけあって引っ張り、どちらが切れるかを競って遊んだ事がある。これらの野草を、夫々茹でて命を繋いでいたのだろう。

 次に、「しゃうぶの根、ところ(病人又はよわきもの食べからず)、オケラの根、右は細かに切りて水にしたし置けば匂いも苦味も去りて用ゆ」

 「しゃうぶ」は御存知花ショウブのことで、日本では古くから邪気を払うものとして、端午の節句に屋根に葺いたり、鬘(かつら)に挿したりした。ただ、漢方の胃腸薬として用いられたが、この根が食されたと言う事は聞いたことがない。

 「せきしゃう」とは、サトイモ科の常緑多年草で、ショウブに似るが全体に小さく谷間の水辺に群生、また観賞用に栽培すると言う事だが、食すると言う事は書かれていない。ただ、昔から頭をよくする薬草として知られていて、健忘症などによく効くとして用いられたという優れものである。

 「ところ(野老)」は、ヤマノイモ科のつる性多年草で、根茎は正月の飾り物とされ、また苦味を抜けば食用となり、煎じて胃病や去痰の薬とするということで、各地で食されていたらしい。

 ところが、我が故郷では、前出の「「凶作一件穀値段萬覚え帳」に、「毒あたり之覚」の条に、「ところ根喰い合せ大きに難儀致し、人又は死し候人も有り」と書かれている。(09.12仏法僧)