サイバー老人ホーム

275.救荒食物1

 戦後の食糧難を経験した人は食べ物の話に成ると俄然得意気になって、そのときの苦労話を始める。斯く言う私なども、例外なくこの時代の人種であり、話し始めたら限がない。
 
 かの有名な作詞家阿久悠さんなども私と同じ世代の人で、阿久悠さんの書かれた「瀬戸内野球少年団」にも、主人公の竜太少年が、「夏は、専ら植物分布図に従って行動」し、イタドリに始まり、ヤマモモ、秋の山栗と続いた」と書かれている。

 これは私にとっても同じであり、阿久さんの故郷淡路島に有って、我が故郷にないヤマモモを除いて、我が村ではこれに野苺、グミ、桑の実と続き、竜太少年たちのヤマモモで顔中真っ赤に染まるほど食べたことには十分対抗できる内容があった。

 山の恵みがもっとも豊富だったのは秋であり、栗・胡桃は勿論、アケビ、山葡萄、猿梨と、一旦山に入ると食べる物には事欠かなかった。

 ただ、アケビと言うのが中身を食べるのではなく、皮を食べるというのは関西に来てから始めて知った。中身を食べる時、皮の部分が口に入ったりしたが、子供の頃、理科の時間で嗅いだ晒し粉に似たえぐい味が思い出され、未だに食べる気にはならない。

 当時、甘い物がまったくない時代で、アケビの甘さは格別であった。ただ、このアケビには無数の種子が詰まっており、これを除けて甘い果肉を吸い取るというのは至難の技で、どうしても腹の中に入ってしまう。その結果は猛烈な便秘に悩まされた。

 また、猿梨とは、野生のキーウィフルーツの事で、大きさはせいぜい親指の先ぐらいだが、若い内はものすごく酸っぱくてとても食べられる物ではなかった。霜枯れの頃、弦になった樹木の中に探し出して食べたが、素晴らしく美味しかったが、それまで残っていればの話である。

 ただ、こうしたものはあくまで嗜好品であり、腹の足しになるものではない。戦後はとにかく腹がすいた。今考えると、どうしてあんなに腹がすいたのだろうと考えるが、飯以外に食べる物がなかったのだろう。

 私の故郷にも、小さな商店街があったが、ある店といえば呉服屋、魚屋、酒屋、小間物屋、本屋兼文房具屋ぐらいなもので、今をときめくスナック菓子の類はまったくなかった。
したがって、学校から帰っても、おやつなんて気の利いたものは言葉さえ知らなかった。カバンを放り出して、母親の目を盗んで釜の蓋を開けて残り飯をつかみ出して食べた事もある。

 ただ、残り飯と言っても、今のように白米だけの飯ではなく、麦飯は当然として芋の入った糧(かて)飯(めし)であった。

 この頃の食糧難でもっとも哀れだったのは疎開児童であったろう。私などの百姓の子倅などはたとえ糧飯でも弁当を持ってくる事も出来たが、疎開児童の場合、それすらもなく、うどん状のものをこぼさぬように持ってきて食べているのもいた。

 小学生の頃、全校生徒で山菜取りに言った事がある。このとき先生から「山で美味いもんはオケラにトトキ」と言うことを聞いた。

 このオケラとは、古名をウケラといい、菊科の多年草で、近縁種とともに生薬として用いられるとの事である。また若芽を山菜として食用もするということで、根茎を干したものを蒼朮(そうじゅつ)・白朮(びゃくじゅつ)といって利尿・健胃薬とし、正月の屠蘇(とそ)にも入れ、邪気をはらう力があるとされたということで、先生の言う事も間違ってはいなかったが、ただ食べたことはない。

 またトトキとは、学名釣鐘人参であり、秋になると釣鐘に似た薄紫の花をつける。漢名は「沙参(しゃじん)」といって、根はせき止めの漢方薬の 「沙参」になると言う代物である。

 当時、主食の米の飯に変わる物を代用食といったが、今なら差し詰めこれでも人間の食べ物かと言うようなものまで食べさせられた。

 ただ、代用食と言っても、米に変わる物などそれ程あるはずもない。その代表的なものが、かぼちゃと芋であった。かぼちゃは家の周りじゅうに植わっていて、顔が黄色に成るほど食べさせられた。

 また、芋は毎食何らかの形で献立の中に入っていて、その皮を剥くために我が家の包丁は芋の皮を剥く部分の刃が凹むほど母親は芋の皮を剥いていた。

 私の子供の頃でも、ジャガイモと、長芋はあったが、里芋はまったく栽培されておらず、薩摩芋は珍しいほうであったかもしれない。ただ、長芋は食が進みすぎると言う事で敬遠され、暮や正月など特別な日だけだったように記憶している。

 なぜこれほど食べ物がなかったかと言うと、保存能力がまったくなかったからである。今ではどこの家庭でもある冷蔵庫などは勿論、魚屋でも天然氷がある時期だけ木製の冷蔵庫がある程度だった。

 信州人は昔から海も無いのに新巻鮭が好きといわれていたが、滅多に口にする事もない魚を、毎年年末になると腐ることもない塩鮭を買う事がいつの間にか習慣になっていたのだろう。したがって、穀類以外は、焼くか茹でるか、もしくはそのまま天日に乾燥させて乾物として食べるしか方法がなかった。

 唯一と云ってもいい蛋白源は、田圃で育てる鯉であった(別掲江戸グルメ参照)。一方、信州人のゲテモノ喰いはよく知られているところで、蝗(いなご)は可なり普及し近頃は都会のスーパーでも見られるようになった。

 そのほかに、スキー民宿などに行くと出される蜂の子は信州人の大好物だがまだ市民権を確保していないようだ。もう一つは、南信州のほうで食べられるものでウスバカゲロウの幼虫のジャジャ虫がある。

 天竜川流域ではかつて、この虫を採る為の川漁師が板と言うことだが、今まで食した事はない。更に、蚕の蛹がある。繭から糸をとった後に蛹が残るが、これを炒って食べるのであるが、戦後の食糧難の頃、時々食べたが結構美味かった。信州は海のない県であり、動物性蛋白質を採るためにこれらのものが食べられたのだろう。(09.11仏法僧)