サイバー老人ホーム−青葉台熟年物語

8.客と者

 我が家の前には六甲山が聳え立っている。聳え立っているからと言って視界を遮られているわけでもなく、四季折々の山肌の変化が眺められ、殊のほか気に入っている。

 六甲山と言う山は神戸を懐に抱いたような山で、海抜は940mにも満たないが、この登り口は大方海抜0メートルか、せいぜい数十メートルからである。従って標高差900メートル近くを登ることになり、甘く見ると大変である。登山道は古くから様々なコースがあり、それぞれに四季を通じて豊かな自然が楽しめ関西でも最も人気のある山の一つである。

 この山稜にはたくさんの人々が生活をしているので、歩いて登ると4時間もかかる最高峰にも車で30分程度で登ることができる。ところが登山道には塵一つ落ちていないが、時々交差する車道の両側はまさにゴミ捨て場そのものである。
これは何も六甲山に限ったことではない。何年か前にはしかるべき準備と体力のある人だけが行くことができた高山でも今では道路やロープウエイが整備されてお金さえ払えば誰でも行けるようになった。

 この事自体に異存はないが、日本の観光地には二つの種類の人達があるような気がする。一つは観光客・登山客・釣り客等と称されるいわゆる商業ベースの企画に乗ってきた人達、もう一つはみずからの企画できている旅行者・登山者・釣り人と称される人達である。

 この「客」族の場合、全てではないがマナーの悪さが目に付く人が多い。昔から「旅の恥は掻き捨て」と言うのが日本人の旅に対する感覚であって、所構わずごみを捨てまくる習慣がある。お金を払っているのだからその間の尻拭いは全て企画側にあると考えているのかもしれない。特に大食らい大飲みをしている団体は最悪である。

 もっともこうした事は受入側にも責任がある。「客」である限りは、多少の無理も聞いてやらないと商売に差し支えると考えているのか、本来自己責任であるべき事でも受け入れている。最近は3000メートル級の高山の山小屋でもホテル並みの食事のメニューをきそっているところがる。その結果平地と変わらないごみの山である。勿論これらはヘリコプターで下界に吊り下ろされるだろうが、それらの高価なゴミ処理費用がかかるためか畳半分のスペースで素泊まり8000円は高すぎる。だったら食事込みにすれば良いと言う事になるがそう云うものではない。

 総じて、登山「者」とか旅「人」族の場合はそこに至るまで一歩一歩踏みしめた苦労を身をもって体験しているから自然との調和を大切にする。かつてはボッカと称される人々が全て肩で背負い上げたため、山小屋の食事などと言うものは味よりはエネルギーを確保するための最低限のものであった。それが良いと云うわけでもないが、山と言うのはそういう環境に耐えらる人だけが到達し得た場所であり、せめて自然に戻らないごみくらいは自己責任で持ち帰らせるのが登山「者」の責務とさせたいものである。(00.2仏法僧)