サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

111.靴

 昨年12月に大阪舞島の「アミティ舞島」という障害者福祉施設でMLのオフ会があり、これに参加したのである。プールを始め行き届いた施設であった。 ここで来たついでに仲間とプール歩行をしたまではよかったのであるが、自宅に戻って水泳パンツを忘れた事に気付き、幸い未だ残っている人もいたので受付に預けてもらうように依頼したのである。

 このことをこのサイトの掲示板(問答有用)でやり取りしたのであるが、その際問題のパンツが20年以上も前の年代ものと言うことに触れたところ早速娘から「止めてよ」と抗議がきた。

 結局新品を買ってもらうことになったのであるが、考えてみると横浜に在住の頃、上の娘とプールに行った時に既に身につけていたから、かれこれ25年は経っている事になる。取り分け高級品と言うことでもなく、気に入っていたわけでもない。強いて言うならばその頃よりあまりプールや海に行くことも無く、下着と一緒にタンスの隅に眠っていたことになる。ただ、基本的には私の心の中に物を大事にするという今時あまり美徳ともされない貧乏根性があったことには間違いが無い。

 そういえば最近は益々物への執着が失せてしまったような気がする。毎日処分に困るほど届けられる折り込み広告を見ても視線が止まるものはほとんど無い。
 ところがこの中で唯一と行っていい拘りの物があったのに気が付いた。それは靴である。「な〜んだそんなもの」と思うなかれ、私にとって快適に歩くのは最大の願望なのである。

 実は今でも装具と言うものを付けているのであるが、退院時のあの血の気の通わないいかついものから多少短くなった短下肢装具であるが、これがあるがために靴の着脱は大変なのである。

 先ず足にフィットさせようとすると履く場合に長めの靴ベラをテコにこじ入れなければならず、楽に履ける靴の場合はミッキーマウスのように靴が歩いているようになる。リハビリシューズと言うのもたくさん出ているが、なんとなく「歩き始めのミヨちゃんが」履いているようなものばかりである。従って靴の広告には何時も目を通していたし、たまに出かけても靴の売り場だけは関心があったのである。

 思えば我々の世代はトンと靴には縁の薄い世代であったかもしれない。先ず、小学校入学の時は親父が買ってくれた真新しい下駄だったが、これは取り分け我が家だけがそうであったわけではなく、全校生徒のほとんどがそうであったのである。以来、小学校時代は藁草履かちびた下駄、ただ冬はさすがにそうも行かず、藁靴なども何度か履いたこともあるが、新しい時はよいが一旦付着した雪が解けると始末に負えなかった。

 後はもっぱら兄たちのお下がりで、ドドゥ、ドドゥ、と歩くたびに音を立てていた大きな長靴の中で小さな足が踊っていたのである。この頃靴と言えばもっぱら配給で、それもくじ引きである。クラスに割り当てられた僅かな学童靴をめぐって必死の争奪戦をするのであるが、当ったためしがなかった。

 戦後何年かたってゴム草履と言うのが始めて店先で売られるようになった。古ゴムを押し固めて作ったような代物で、固い上にすぐに割れたのである。それでも雨やぬかるみに影響することもなかったのでずいぶんとお世話になった。

 中学時代には藁草履はなくなったがほとんど下駄で過ごした。この頃になるとゴム長靴が商店でも買えるようになったが、なぜか相変わらず大きいサイズばかりで、子供用がなかったのか、はたまた何時までも使えるようにという母親の智恵だったのかもしれない。

 下駄と言えば、高校時代ももっぱら下駄で通したが、これも我が家だけの事でなく、女学生も含めて圧倒的に下駄が多かった。登下校時ともなると木造の駅の陸橋をガラガラと一斉に渡っていくのであるが、これを見た都会の学生の一団が目をむいて眺めていたことがあった。

 この頃はさすがに靴がないわけではないが、当時スポーツ用のツートンカラーのアップシューズと言うのが垂涎の的であり、わざわざ修学旅行先で買い求めていたのである。

 靴が自由に買えるようになったのは昭和30年代に入ってからで、自由と言っても今度は経済的な制約があったのである。当時の靴はいまのような既製靴ではなく、ほとんどが誂え靴であったのである。既製靴がないわけではないが、その場合は足の方を靴にかなりあわせることになる。

 そう言う貴重な靴であるから、履きつぶしなどということは滅相もない。買ったその時から踵と爪先に鉄の鋲を打って磨耗を予防するのであるが、終いには何個も鋲が打たれるから駅の構内などガチガチと大層賑やかであったのである。
 それでも磨り減って、どうしようもなくなると先ず踵を交換し、更に半張りと称して足底部分を交換するのである。これを何度か繰り返してようやくゴミ箱行きとなる。そうした苦難の道を乗り越えてきただけに、靴には特別の思い入れがあるのかもしれない。

 考えてみると今の時代、靴ばかりでなくあらゆるものが既製品でまかなえるようになっている。それだけ生活は便利になったのだろうが、逆にこの既製の概念から外れた場合は恐ろしく不便になる。

 取り分け障害者用の用具と言うのは極めて大雑把である。早い話が、歩行用の装具であるが、形も様式も極めて限られている。一方、障害の程度はリハビリなどにより様々に変化しており、既製という限られた範疇では実情とはかなりかけ離れている。

 今の時代、生活のあらゆる面で既製品と言う概念にとらわれすぎているのかもしれない。司馬遼太郎さんがアメリカ社会を評して「人造国家」と言ったが、今の日本もまぎれもなく「人造国家」で、固有の文化や生活に根ざしたものが見当たらなくなった。旅でもそれを企画し、計画を立てるところに半分以上の楽しみがある。パック旅行などとなるとガラス箱に入れられてその周りを映像だけが動いているような感じである。

 こう考えてみると、既製品の中に自分にフィットしたものがない社会をうらむより、靴でも何でもフィットしたものを自ら開発して、作ってしまえばよいことに気が付いた。より快適に過ごすには、制度にぶら下がっていても始まらず、自ら切り開いていく努力が必要で、今年からは自ら打って出ようと意を固くした次第である。(01.25仏法僧)