サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

93.草野拓郎さんを偲ぶ2

 草野さんを特徴付けるものとしてタンゴがあった。タンゴについては飛び切りうるさい耳を持っていたようだが、ド演歌をこよなく愛する私とは文化の香りが一味も二味も違っていたのかもしれない。

 昨年3月に仕事の方が一段落したこともあり、再び野球に復帰しようとしていた矢先、草野さんの姿が見えないのである。畑に行ってもさやえんどうが黄色に変色し始めて、間もなく収穫時期を終わろうとしていたがここでも姿が見ないのである。多分外国にでも行っているのではないかと思っていたが、5月の初旬、出すぎたことと思いつつ、収穫できるものを収穫して草野宅に伺うとスリムだった草野さんが益々細くなり庭に出ていたのである。

 事情を言ってさやえんどうを渡すと、そこで初めて「胃癌でもう先がない」と自ら告げられ、しかも「延命治療はしない」と自ら言われるのである。驚愕のあまり言葉を失い何もいえなかったのである。ただ、あれだけ食べ物に拘っていた草野さんが何故、そして今時胃癌如きでという疑問と慙愧の気持ちは今でも残る。

 ところが6月1日に今度は私が脳梗塞になり、入院する羽目になったのである。そして入院後2週間ほどたったある日、草野さんが見舞いに見えたのである。ご子息の運転で見えられたとのことであったが、この時はまだ起き上がることも出来ない状態で、ほんの短い時間僅かな会話を交わすだけで終わったが、これが草野さんとの最後の別れだったのである。

 7月30日に草野さんの訃報を家内から聞いた。その時の日誌に「草野さんの訃報に思わず涙がこみ上げてきた。また一つ寂しい夏になった。」とだけ短く書かれているが、病気による影響もあるのか、極度に感傷的になっていて、声をかみ殺してないたのである。その後も思い出すたびに涙がとめどなく流れ、12月に退院後もお焼香に上がることも出来なかったのである。

 メールでお嬢さんに次のように伝えている。「思えば私がもっとも親しくして頂いて、何もお役に立てず申し訳なく思っています。わざわざお加減が悪いのにお見舞いにまでおいでいただき、病院にいても思い出すたびに涙がとめどなく流れました。今でもご家族の皆様にお会いしても感情が高ぶって言葉にならないと思います。一番元気にしていた我々が、なんとも心の重い年になってしまいました。」

 草野さんはその頑固さゆえに、ご自分の死期までも決められてしまったような気がしてならない。草野さんとは様々な形でお付き合いいただきながら、お互いにもたれあうようなお付き合いにならなかったのは、頑固さにおいてはこちらも筋金入りで、お互いの頑固さがぶつかり合った場合、隣近所に住むことの窮屈さを考えて、お互いの矜持を保っての付き合いとなった結果かもしれない。

 今年に入り神戸三宮の画廊(アートギャラリー・ミレニアム)の友藤さんから草野さんの追悼展の提案があったが、当時まだ回復がはかばかしくなく、返事を躊躇していたのである。3月に入り発病前に参加していた矢野重弘先生の教室に復帰し、ようやく絵らしきものが画けるようになったところで再度友藤さんからお誘いがあったのである。

 この頃、いささかオカルトめいた話しで恐縮だが、夢の中で草野さんが電話をかけてきて何かの会話の中で「出来るだけ大勢の方がいいのですが」と例の遠慮がちにおずおずとした語り口の中でこの言葉だけが記憶に残ったのである。
 翌日すぐに草野さんと共通の友人に声をかけてそれぞれの絵仲間に依頼したところ最終的に17名もの絵仲間が集うことになったのである。

 未だにお焼香にも伺っていないが、今回の「草野さんを偲ぶ展」が爽やかな佳人、草野拓郎さんのささやかながらの供養になればと出展者共々念ずる次第である。(02.07仏法僧)