サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

92.草野拓郎さんを偲ぶ1

 我が家の隣人であり、画家である草野拓郎さんが逝ってちょうど1年になる。草野さんとの出会いは昭和60年にこの地に越してきて以来のことになるが、当時は関西は初めての土地であり、こうした住宅地特有の孤立した存在だったのである。

 こうした中で娘同士が同級生であることから家内はいち早く知己を得たようであるが、亭主というものは情けないもので、なかなかこうした付き合いの中に溶け込めないもので、17年たった今でも同じ隣組の中でも未だに言葉も交わしたことのない家が何軒かある。

 そんな入居した年の夏の初めに家内が1通の個展の案内状を貰ってきたのが草野さんとの付き合いの初めである。その頃絵に対して取り分け興味を持っていたわけではなかったが、神戸三宮の画廊に行ってみてこれは驚きというより衝撃であったのである。

 その会場ではじめて奥さんの紹介で草野さんにお目にかかったのであるが、私の隣にこんな絵を画く方が住んでいたのかというのが先ず驚きで、その作品の何という爽やかさに衝撃を受けたのである。取り分けそこにかかれている樹木の自然さが素晴らしく、心が洗われる思いでしばし見ほれていたのである。

 これは公表されている略歴だが草野さんは神戸新聞に勤務され美術関係を担当されていたとのことで、その後退職されて姫路学院大学で美術の教鞭をとられたと聞いている。個展は何度も開かれているが、取り分け姫路学院大学に勤められ初めてた頃は最も充実していたのではないかと思うのである。

 この頃の草野さんとの付き合いは絵よりは野球であったのである。何がきっかけであったか忘れたが、多分草野さんの誘いで、公園に行ってキャッチボールをはじめてのが始まりである。その頃まだ野球は見るものと考えている頃で、グローブもなければボールすら永い間触っていなかったのであるが、二人の中年過ぎがキャッチボールをする姿は珍しいものでなかったかと思う。

 草野さんは以前から軟式のピッチャーをしていたとのことで、関西に越して来てから一二度ソフトボールのキャッチャーをしたささやかな経験から、私がもっぱらキャッチャー役を引き受けたのである。その後草野さんは還暦を迎えられると間もなく還暦野球チームに加入し、続いて私が還暦を迎えると待っていたように引き入れたのである。尤も引き入れたといえば大物トレードのように思われるが、これほど野球を知らない、しかも下手糞を何故引き入れたかといえば多分草野さんの前宣伝と、部費集めの目的であったかもしれない。このことはこの雑言「還暦野球」に書いている。

 ところで草野さんと野球というのもいかにもミスマッチ風であり、何故草野さんがこれほどまでに野球にのめりこんでいったかそこのところは定かでない。およそ風貌からして学者的で、豪腕・剛球・俊足で鳴らした野球人の面影などない。長身な上に手足が常人よりかなり長く、ずんぐりむっくりの私とキャッチボールをしている姿は蜘蛛と亀虫の格闘のようなもので、お義理にもそれほど格好の良いものでもなかったかもしれない。

 おまけにそれほどボールも早くなく、失礼ながら蝿が止まるほどではないしても蜻蛉だとそこそこついて来れるほどだったのである。したがって還暦野球チームでもエースというわけには行かなかった。ただ長い手の振りからかなり遅れてボールが出てくるのでコントロールさえ良ければ打ちにくいピッチャーであったかもしれない。ただ、二人揃って試合に出る機会は少なかったわりには練習とグランド整備だけは良くやった。

 草野さんとの付き合いの中で、これだけは私のほうが上手ではないかと自認しているのが菜園である。菜園をはじめたのは私が初めであったが、ちょっと場所が遠かったので近くに場所を探していたところ草野さんもやっている近くの畑を紹介してもらったのである。畑といっても棚田のような傾斜地の小さな休耕田であったが、お互い声を掛けると聞こえるほどの距離だったのである。

 草野さんにはこだわりがあって、いわゆる自然食主義である。そのことは私もある程度同様であるが、草野さんの場合は徹底していたようである。
 野菜といえどいもほとんど自然のままの栽培である。いくら自然栽培といっても、野菜でも成長するのであり、成長する限りは肥料も必要である。「多少は肥料も・・・」とアドバイスしたこともあったが、ほんの一握りの牛糞や鶏糞は施すことはあってもより大きくしようとか、より多くなどとは考えてはいなかったようである。

 したがって草野さんお野菜は小さくいじけていたようであるが、その代わり味は濃かった。大根なども牛蒡に毛の生えたようなものであったが、目の玉が飛び出すほどからかった。
 時々おすそ分けに頂いたりしたが、あのいじけた葉っぱから想像すると選りすぐりの上物をわざわざ我が家に頂いていたのかもしれない。

 尤も普段から食べ物にはすべてこだわりがあったようで、もっぱら菜食主義らしく、いわゆる美食家ということではなかったが蕎麦にはかなりこだわりがあり、近隣の蕎麦屋は勿論、遠く出石辺りまでわざわざ蕎麦を食べに行っていたらしい。

 草野さんは無類の面倒見のよさで、一時、絵画クラブの指導をお願いしていた頃も、絵画指導以外でも写生会のトイレ探しまで親身に面倒を見ていたが、一方で知る人ぞ知る頑固者であったようで、このサイトの「青葉台風土記」の中国縦貫道工事に関わる青葉台闘争では当時の自治会長に「青葉台三悪人」と嘆かせた強力なリーダーのひとりであったらしい。

 ただ、普段は極めて温厚で、絵画指導等でも自分の考えなど全く出さず、各自の自主性を見守る姿勢を貫いていたが、このことが憧れを持って参加した私には物足りなさと私の能力の限界もあり、失礼ながら別の方向に向かうことになったかもしれない。(02.07仏法僧)