サイバー老人ホーム

239.食い扶持
 戦前は、「生めよ、増やせよ」の合言葉で、どこの家でも四・五人ぐらいの子供が居た。ところが、子供の頃はそれでも良いが、大人になっては、そのままでは家庭がもたない。
 私の子供の頃でも、口減らしとか、食い扶持減らしなどと言う言葉が使われていた。いわゆる、人数を減らすことで、特に、子供を奉公に出したりして、生計の負担を減らすことである。

 かつて「就職列車」などで、多くの子供達が大都会に送られてきたが、これらの子供達は、その主目的は口減らしではなかったろうか。

 ところで、江戸時代の食生活はどのようなものであったろうか。金襴屏風の前で、美女に囲まれて、二の膳、三の膳を前にして美食を楽しむなんて事は、往年の東映映画の世界の事であって、一般の民百姓は飯を食うと言うことは、腹が減るから食うのであって、味覚で食べると言うことなどなかった。

 これを裏付けるものとして、当時、新米より、古米のほうが値段は高かったのである。それは、新米の場合、水分が多く、炊いた場合、古米に比べて増えないためと言うことである。

 次に、食事の回数であるが、江戸時代は一日二食が普通であったと言うことである。朝飯が、明け五つ(午前8時)頃で、晩飯が暮五つ(午後八時)頃で今と差はない。ただ、これだけだと烈しい労働の季節には堪えられず昼にコビル(小昼)と呼ばれる軽食を取っていたらしい。

 私の子供の頃にも、コビルはあったが、むしろおやつに相当するもので、午後の三時ごろの中休みに握り飯を一つが出されていた。

 武士の一人扶持と言うのは、人一人が一年間に食べる米の量の事で、凡そ一石八斗程度であったらしい。
 しかし百姓はどうかといえば、柳田國男の「山村生活の研究」によると、「年に一斗五升も白米を消費するのは上の部であった」と書かれている。当時の百姓は、米を作っていながら、米の飯を食べていない。米二三分に雑穀を混ぜたもの、又は雑穀ばかりのものが、百姓の主食であった。

 然らば、雑穀等どういうものであるかといえば、粟稗黍などになるが、粟と黍の混ぜ飯は食べた事があるが、稗については、私の故郷にも、その食べ方を示した記録は残っていない。
 「山村生活の研究」によると、「稗の混ぜ飯は、飯の炊ける頃に稗の粉を振ったり、或いは湯に入れて掻き混ぜる」となっている。

 これ以外に、大根や菜っ葉の干葉、大根を刻んで入れたものもあり、特に凶作時には様々な野草を加え、これらを糧飯(かてめし)と呼んでいた。これらの多くは、終戦後の食糧難時代に、多くの人が経験したところである。

 ただ、戦後の食糧難時代に、準主食とも言える、芋についてはあまり記録が見当たらない。
 ただ、天保4年ごろ、江戸ではサツマイモの焼き芋が大流行で、「蕃薯(さつまいも)の都下に行わるるに、今既にひさし。然れども、?(わい=いも)食の行わるも、また薬食(薬用として鹿や猪の肉を食べる事)と同一時なり。四銭の芋、能く穉(ち)児(幼い子供)の啼くを止め、すなわち十銭に至れば、又以って書生一朝の飢えを医やすに足る」と寺門静軒の「江戸繁昌記」に書かれている。

 一方、主要穀類である麦・蕎麦については、粉にして麺類として主に食していたようである。勿論、我が故郷はそばの名産地、だからと言ってのべつ蕎麦を食べていたわけではない。

 多分、蕎麦も貴重な現金収入源であったのだろう、天保六年(1835)、信州蕎麦を大阪で売り出すため店舗を開くに当たって、「信州そば大阪店開業留帳」と言う記録が残っている。
 それによると、店舗は大阪心斎橋過書町信州屋徳蔵で、仕入に当たっての心得を事細かに書き残している。

 従って、私の子供の頃でも蕎麦を食べると言うのは、どちらかといえば、祝い事や珍客が見えたときに食べるのが主で、普段は、今では甲州の名産とされている煮込みうどんの「宝湯」であった。

 ただ、麺類の場合、粉の消費量が多くなるため、各地に夫々特色のある食べ物が在り、今でも残るものとして、水団(すいとん)や、団子汁、蕎麦掻などがある。

 私の故郷にも、「百姓は雑穀をよく用い、米はみだりに用い間敷き事、凶作の年柄の節、よく心得野菜沢山用い、食事の事は秋の内より心掛け、成る丈日々夜は粥に致すべく、春に至急に難儀致さず様、心掛け申すべく候」と言う記録が残っている。

 米と言うのはさほどに天候に左右され、常に凶作を考えながら、食されていたのかもしれない。そもそも、食事をすると言うことは、お腹を満たす事であって、今のように味覚を満足させるためではない。

 それを表すものとして、古米より新米の方が安かった。それは、新米の場合水分が多く、同じ一升でも、炊き上がったご飯にすると新米の方が少なかったからである。

 したがって、当時の副食は、食を進めると言うより、あくまで主食を補うための物であり、味噌汁、漬物程度で、煮しめは比較的新しい時代であったようである。

 次いで代表的な副食品は、漬物である。信州の代表的な漬物は野沢菜であるが、私の小さい頃から、食事以外でも野沢菜を食べ、来客が来たときなど、野沢菜を食べながら、囲炉裏に掛った鉄瓶が空になるほどお茶を飲んだ。

 野沢菜以外では、大根漬と、自慢の信州味噌の味噌漬けで、牛蒡以外に、あらゆる野菜を漬け込んでいた。この狙いは、保存性に重きを於いていたのだろう。

 野菜以外では、茸がよく食されていた。私の子供の頃でも、指を折って数えると、十を下らない茸を食していた記憶がある。ただ、茸の王様松茸は、当時も貴重な食材であり、多くは領主または、将軍家への献上品として使われていたのだろう。

 ただ、煮しめは味噌味による大根や、芋の煮っ転がしと言うのが主で、海のない信州のため、肴などの煮しめは盆暮れぐらいのもので、それも田圃で飼った鯉の干物を煮付けたもの程度であった。

 その為か、信州では、野生の動物や昆虫を食べる習慣がある。今では、全国的に知れ渡り、都会でも買えるようになった蝗、また、冬スキー場の宿での味覚蜂の子、更に蚕のさなぎなどはいずれも好んで食べた事がある。

 これ以外に、ウスバカゲロウの幼虫「ジャジャ虫」と言うのがある。これは主に南信州の天竜川沿いで食べられたと言うことだが、生きている虫は知っているが、姿かたちに恐れを為して食べた事はない。

 これは私の近くの村で、ゲンゴロウと言う水生昆虫も食べたと言う記録がある。ゲンゴロウの潜む、たまり池に正月に食べた塩鮭の頭を縄で結わえて放り込んでおくとそれにゲンゴロウが群がる。

 それを網で一網打尽にして捕らえると言う事で、聊か想像しただけで身の毛がよだつような気がする。食べ方はいたって簡単、火であぶって、羽をむしり取って食べると言うことである。
 いずれにせよ、今の時代のメタボなどとは縁もゆかりもない食生活をしていたと言うことである。(08.05仏法僧)