サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

33.昆虫顔

 最近電車の中で奇妙な顔の若者を見かけるようになった。どのように奇妙かといえば、なんとなく顔がアンバランスなのである。自分の顔のアンバランスをさておいて、人の顔の批評をするのもおこがましいが、今までにあまりお目にかかった事のない奇妙な顔なのである。

 若者といえば青春のシンボルとしてのニキビを浮き立たせ、なりふりなどかまわないのが青春の輝きでもあった。ところが最近見かける若者は顔の皮膚など赤ん坊のように滑らかで、青白く、小顔である。その上、毛虫のような茶髪で長円形の小さな眼鏡でじっと何かを見つめている姿は今までの日本人にはない顔ではある。

 ただ、どこかで見かけたことがる顔であると思い考えてみた。そう、それは遠い過去に、こわごわ覗いた野原の草むらや近くの溜池の中でお互いじっと見詰め合ったあの顔、昆虫たちの顔だったのである。

 なぜ今の若者がこのような顔になったかの思い、つぶさに観察してみた。その原因は眉毛にあったのである。共通していることは眉毛がきわめて不自然なのである。普通眉毛は眼窩という眼球の入っている骨の上端に沿って生えていものであり、生理学的には眼球の保護と人間特有の表情を作り出す位置に生えているのである。

 ところが最近の若者のそれは、この自然の摂理に反して、斜め上に立ち上がっているのである。いわゆる逆八の字の形である。しかも生え始めているのが鼻梁に近く眼窩の先端ではなく、庇の部分から生え初めて、眼窩を斜めに横切り、その先端は通常の眉毛の位置とは関係のない、額の部分まで伸びているのである。わかりやすく言えば歌舞伎の隈取みたいなものである。勿論これがすべて自然に生えた眉毛で形作られているはずが無い。基点や、末端は書き込んでいるわけである。

 そもそも人間には喜怒哀楽から始まって、感嘆、驚愕、憂いなど様々な表情があるが、これらはいずれも眉毛の動きで表現するところが大きい。その眉毛が一定方向に規制されているところに表情の乏しさが出ていて、昆虫のような無表情な顔になっていることに気がついたのである。

 これは何も男の若者だけでなく若い女性も同様であるが、お化粧というのは古来より女性の特権であり、しかも女性の場合はヘアースタイルも含めた顔全体の創作でもあり、そのことについては触れないことにする。

 しかし、男は別である。男は自分の顔には自信を持つべきで、美醜などどうでも良いのである。親から貰った顔の造作すべてが財産であり、それが個性なのであり、人格なのである。多分、今の逆八の字の眉毛は自分の顔を「キリッ」とした顔に見せたいための願望で、イメージ的には高橋英樹さんの「桃太郎侍」のイメージであるが、もともとあれほど整った顔ではないから、実に奇妙なのである。
 眉毛だけキリッとしてもその下が間延びしていたのではその効果はおろか、逆効果である。この昆虫顔の若者がパンツが見えるほどにズボンをずり下げて電車の床にうずくまっている様は、あたかも「団子虫」が脱皮を図っているような姿である。

 我々の若かりし頃にも社会に背を向けた突っ張りもあった。バンカラと称して破れ帽子に腰手拭、不精髭に素足に高下駄を履いて粋がったものである。周りの目など気にせず「質実剛健」か「ボロは着ても心は錦」と水前寺清子さんの歌の世界の気分に浸っていたものである。
 その結果が今の世の中とすればあまり威張れたものではないが、醜悪としかいえないその「団子虫」スタイルで、今の若者は何を表現しようとしているのかどうしても理解できない。

 それに「キリッ」とした顔だけが良いのではなく、八の字眉毛の人の良さそうな顔や、豪快なげじげじ眉毛だっていいではないか。女優の田中裕子さんのような憂いを感じる表情にはたまらない魅力を感ずるものである。
 人にはそれぞれの個性があるように、顔もそれぞれ異なっているものである。その異なった顔はそれぞれに魅力があり、味わいがある。特に優しさの表情は今の逆八の字の眉毛では表現できない。強いだけが良いのではない、人は弱さの中に優しさが生まれてくるのではないかと思う。

 今年の高校野球を見ていて、高校球児の中に同様な処置を施しているのが目に付いた。かつて、山陰地方の某高校の選手が額の生え際に剃りを入れているといって厳重注意されたことがあったが、今の世の中はファッションに対してはまったくの寛容な世の中になっているみたいだ。

 遠くは「ちょんまげ」の江戸時代から、「ざんぎり頭」の明治維新に至る過程で、日本人の風俗は一変した。このときの変化を当時の先人たちはどう眺めたか、できることならその時の感慨を聞いてみたいものである。
 どちらが良いと言うわけではないが、若者たちが主張する我々との間の壁が徐々に広がり、どちらかが着実に異邦人になっていくような気がしてならない。(00.8仏法僧)