サイバー老人ホーム−青葉台熟年物語

114.プリンス近衛の死

 昨年(二〇〇二)の暮、私はN・H・Kの『真珠湾への道』という放送番組を見た。これは昭和の戦争への過程をドキュメンタリー風に綴つたもので、日米開戦の前まで首相であり、戦後、服毒自殺をした近衛文麿のことと共に、文麿の長男近衛文隆のことも、語られていた。私が特に関心を持ったのは、この文隆である。      

 彼は終戦時、陸軍中尉であり、シベリアに抑留され、ソ連刑法により対ソ敵対行為のかどで起訴され、二五年の禁固刑をうけ、 一九五六年一〇月二九日服役中に死亡している。

 《文隆は死亡の前月の九月二三日に、「元気でいる。今年中には日本に帰れる」という手紙を妻の正子宛に送っているのに、急に死ぬのは不自然だ。放送番組では病死したとしかいってなかったが、なにかおかしい?》

 私は早速調べてみた、そして文隆については西木正明著『夢顔さんよろしく』(小説風ドキュメンタリー)や、VA・アルハンゲリスキー著『プリンス近衛殺人事件』(ソ連の機密文書による弾劾の書)などの本がすでに出ていることも分かって図書館で借りた。

 近衛文隆は、一九一五年、公爵(プリンスという)近衛家の長男として京都に生まれた。学習院中等科卒業後、一七歳でアメリカへ留学、予科を経てプリンストン大学入学、政治学を専攻。ゴルフ部で腕を発揮し主将となる。一九三八年、帰国。父首相の秘書官となる。そして翌一九三九年、東亜同文書院学生主事として上海へ赴く。

 上海では小野寺機関の、蒋介石政権に対する直接和平工作に共感し、上京する小野寺中佐に、蒋介石に対する直接交渉の必要性を説く文隆から父文麿(その時平沼内閣国務大臣)宛の親書を手渡した。
 また重慶政権要人の娘で美人のテンピンルーと交際し、その手引きで重慶へ渡ろうとした。これは憲兵隊の知るところとなり、文隆は保護される。このことは、内閣閣議でも話題となり、(木戸幸一日記、六月九日)父文麿から東京に呼び戻される。(写真:近衛文麿と長男文隆)

 東京でも、青年同志会を作り蒋介石政権との直接交渉を説いたことから、汪兆銘政権樹立を進めていた軍部と憲兵隊を刺激し、一九四〇年二月、二等兵として召集を受ける。満州阿城砲兵連隊に配属。幹部候補生志願者となることを認められ、甲種幹部候補生考査に合格、上等兵となる。その後曹長になり、一九四一年十月、一旦現役満期。即日臨時召集され、陸軍少尉任官となり満州下城子に駐屯した。やがて中尉となり、一九四四年、天皇の姪にあたる大谷正子とハルビンで結婚した。

 そして終戦の年一九四五年、駐屯地は図們に移動。八月九日、ソ連参戦。直接戦わず八月十五日停戦命令。妻正子は住まいを出て、他の婦女子とトラックでハルビンへ。正子は知人宅に身を寄せた。(一九四六年一一月正子帰国)。八月十九日文隆は捕虜となり、ここから長い長い拘留生活が始まるのである。文隆は死ぬまでの間、十年以上もかけて一五ヶ所の監獄やラーゲリを引き回されている。

 対ソ敵対行為にしても、彼はきっぱり否定している。しかしいくら否定しても果てしなく続く尋問につぐ尋問。知らぬ間に判決が下されているという状況であった。途中で彼には帰国を条件として、ソ連への内通者となることの誘いが、何度もあったとされている。しかし、それを拒否したときに、彼の運命は決まっていたのではないか?

 専門家の証言では、外國人服役者で改悛の見込みが無いものには、薬物投与で相手に気力を失わせたり、口封じの為に脳組織を破壊したりするマニアルもあるといわれている。受刑者は自分が処刑されていることが解らない場合もありうるのである。「知りすぎた者たちは、いずれにせよ長生きせず、天寿を全うしない」というスターリンの言葉もある。

 私は全体主義体制の不条理に憤然としつつ、プリンス近衛文隆の懸命に生きた戦争の時代と、その四一年の生涯に深い思いを馳せた。(文隆少尉任官時の写真です。)(03.03)
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  宙    平
cosmicθharmony
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