サイバー老人ホーム

240.米本位制

 江戸時代の通貨が、江戸を中心とした東国では一両小判で知れるところの金貨であり、西国では丁銀などの秤量貨幣の銀貨であったと言う事をよく知られているところである。

 ただ、小判や、丁銀などだけでは、世の下々は生活できない。これ以外に、銭と言うものがあり、我が祖先などは専らこちらのお世話になった口である。

 この銭と言うのは、一般に永と呼ばれ、年貢を納める場合も、米で収める場合と、永で収める場合があった。

 然らば、この永と言うのは何であるかと言うと、そもそも、日本で貨幣が使われるようになったのは、今から1300年ほど前の慶雲五年(708)頃の事で、時あたかも、朝廷は大改革のさなか、701年に「大宝律令」を完成し、次の遷都(710平城遷都)の準備中の頃からと言うことである。

 当時としたら、国家的な大事業であり、このときの莫大な費用に当てるために、中国から「和同開珎」と言う貨幣を輸入したのがはじめとされている。そのため、年号を「和銅」と改元までしている。

 その後、15世紀の終わり、「永楽通宝」が輸入されるようになり、やがてこの永楽通宝を模して国内でも作られるようになり、後に鐚(びた)銭として幕末まで通用していたと言うことである。

 寛永13年(1636)になって銅の生産量が増大したことを契機に、幕府は江戸浅草・江戸芝・近江坂本の3箇所に銭座を設け、「寛永通宝」の生産を開始し、明治を迎えるまで、わが国で発行された貨幣の内で最も多く発行された貨幣と言うことである。

 この寛永通宝は、私が子供の頃は味噌銭と称し、あちこちで目に付いたが、驚いた事に、この寛永通宝は昭和28年まで通用していたと言う事を最近になって知った。

 それでは、この銭をどのようにして稼いだかと言うと、基本的には米を主体とする穀物を売る事で、銭にしていたのだろう。

 昭和三十年代に、蔵相だった池田隼人が、「貧乏人は麦を食え」と言って物議をかもしたが、江戸時代「百姓は雑穀をよく用い、米はみだりに用い間敷き事」などといわれているが、単に凶作や、苛酷な年貢の取立てばかりが目的ではない。

 貨幣経済に移行する中で、米をはじめとする穀類を売って、銭を売る事が大きな目的ではなかったかと思っている。取り分け、米が銭を得る主要な農産物で、百姓が常日頃、雑穀交じりの糧飯に甘んじていたのであろう。

 然らば、この米と言うのはいかほどであったかと言うと、大名の知行地が何万石とか称し、知行地(支配地)を米の取れ高で表示したのは、秀吉による太閤検地によって夫々の知行地の米の収穫高を表示するようになってからである。

 この頃米の値段はいかほどであったかと言うと、一石当り一両、銀四十匁、銭で一貫文であった。 江戸時代に入り、当初は新田開発も進み、比較的安定していたが、五大将軍綱吉辺りから、将軍の大浪費などから幕府の懐具合は急速に悪化していった。

 幕府はこれを解消するために貨幣の改鋳を行うようになった。これによって、若かりし頃習ったグレシャムの法則のとおり「悪化は良貨を駆逐」し、物価はとめどなく上昇していったのである。

 加えて、それまでは比較的安定していた稲作が、時々凶作に見舞われるようになり、諸色の値上がりに拍車を掛けた。

 延宝三年(1675)の飢饉には、「金子一両に米五斗宛て之を売り、銭百文に黒米一升一合也」と高騰した。元禄八年(1695)には、幕府は財政難切り抜けのため貨幣の改鋳を行い、「米百俵(約四十石)二十八両、元禄十年四十二両」まで高騰している。

 更に、「元禄十二年の秋、八月十五日に大風有り、米穀熟せざりしかば、其の年の冬、大蔵の米価百俵三十五石を金五十両に定められ、即ち金一両に米七斗位」になった。

 「安永元年(1772)以来打ち続き七年の凶作にて、あくまで庶民困窮し、殊に去りし天明六年(1786)は凡そ日本中押し慣らし、三分の一の収納成る由、米価次第に高騰し、既に五月中旬ごろ、浅草の御蔵庭相場は、豊かなる時は百俵(四十石)に十七八両に商いした年もありしな、今年は高きは二百二十両までにいたりなり」

 市中に於いては、「白米、金一両に二斗二升より一斗八升になり、小売百文に付き三合」となった。

 天明飢饉と言うのは、天明三年に浅間山が大噴火によって飢饉が惹き起こされ、我が故郷でも一円に騒動が起きていて、「浅間嶽大焼並びに佐久郡騒動記」が残されている。是によると「米金一両に四斗二升、飢人出来都合一万五千二百三人」となっている。

 天保時代に入ると、「天保三年(1833)は豊作、米価は一両に八斗八升三合三勺を最高とし、九斗三升八合を最低としたが、四年は奥羽地方の大洪水で、江戸の米価は五斗二升五合、五年は、関東一帯の持ち米を調査し、不穏当な持ち米を禁止したため、十月には七斗二升六合六勺迄引き戻した。

 六年は、去冬から二月に掛けて冷雨続きで、十月には六斗三升五合となり、七年は無類の飢饉となり、江戸小売で百文に五合から四合に跳ね上がった。十二月になって堂島新米相場は一両に四斗三合強という享保以来聞いた事のない値段となり、売買も休止状態になった。

 八年二月に入って、「江戸では二斗六升二合(百文に四合五勺)で、二十三割三分二厘の高率に上がった。大体が凶作なのだから、米価の狂騰は必至の数と思われるが、減収率と狂騰率との莫大なる懸隔に対して潜心せざるを得ぬ」と言うことで、この辺りが、大阪の「大塩平八郎の変」を惹き起こした所以かもしれない。

 江戸時代、米の値段と言うのは金の価値以上に重要であり、其の傾向は、戦後米の値段の統制が撤廃されるまで続いており、むしろ米本位制であったといえる。

 ところで、金一両は銀六十四匁、銭六貫四百文が、天保七年頃の相場だが、江戸時代の人たちは、こうした代金のやり取りをどのようにしていたのか分からないが、金、銀、銭を器用に使い分けている。

 しかも、金一両は、四分、一分は四朱と言うややこしさである。おまけに、米の売買などでは、一駄単位と言う事で、しかも一駄の内容量は一定ではない。一駄とは、馬の背に積まれる俵の数と言うことで、通常は二俵である。

 但し俵の大きさは一定でないので、俵に入る米の量は俵ごとに変わってくる。従って、「八斗四升荷一駄金三両二分と永二百文、百文に付き三合七勺」となる。是を瞬時に計算したのかどうかわからないが、とても今の中学生ぐらいの知識では及ばない。

 天保凶作の年、村は「種籾代」として、代官所から「四両と永五十三文四分」を利息三割で拝借しているが、これを元利合わせて「金一両と永五十三文八分四厘宛」均等五ヵ年賦で返済すると記載されているが、果たしてこの計算如何様に行うのやら、とても当時も村ではまともに生きてゆけそうもない。(08.06仏法僧)