サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

41.困ったこと

 最近、久しぶりに神戸三宮に出かけたら駅前でものすごい音がしている。行って見ると若者が駅前の一角で楽器を演奏して、歌いながら飛び跳ねているのである。しばらく立ち止まって聞いていたがどんな曲なのか、勿論、誰が作った曲なのかさっぱり分からない。

 楽器を「演奏」して、「歌って」いるとかなり好意的に言ったが、がなりたてて、ただ騒がしいだけである。もともと音楽の無い世代といわれる部類に属するので、音楽のよしあしについて論じる資格も無いが、同じ文化圏に属する日本人同士で、まったく理解できない「文化」が有るというのは困ったことである。

 かつて現役当時、若い社員から「言われていることが理解できません」と反撃を食らったことがある。その時は「理解できないなら理解できるように努力せい」と一括したことがあったが、こと音楽に関してはこの言葉を丸々自分に向けなければならないことになる。

 よく中高年の「おじさん」が物知り顔に「我々ビートルズエージは」なんていうが、我々の場合はそれにも該当しない。小学校に入学したときは戦時色一色の時代で、西洋音楽なるものは一切耳にしたことも無かった。
 入学して最初の音楽は、先生が引くピアノに合わせて「高く上がった飛行機は、西から東へ飛んでゆく。私もちょっと乗りたいな。乗せてくれれば嬉しいな」と小鳥のような大きな口を開いて歌ったといいたいのだが、実はこの歌をまったく知らなかったのである。ところが回りの友達は一斉に歌っているのであるから驚いた。

 私の子供の頃はもっぱら大人たちが歌う「勘太郎月夜歌」か「野崎小唄」のような流行歌か、はたまた軍歌であった。「勘太郎月夜歌」などはかなり上手に歌って、おまけに物差しを脇差代わりに腰に差して踊りまで踊って家族を喜ばしていたのである。
 まもなく終戦を迎えて、いわゆる洋楽というものを聞けるようになったが、回りの環境が伴っていなかった。当時は蓄音機などを持っている家など稀であり、持っていても「浪花節」か「軍歌」程度のものであり、今のようにあらゆるジャンルの音楽が簡単に手に入るなどというのは夢のまた夢であったのである。もっぱら聞き取りにくいラジオからで、その分、曲からくるイマジネーションだけは発達したことになる。

 この程度だから音符なども読めるはずが無い。多分、音階とか和音などを習ったのは中学になってからで、今でもト長調程度は分かるような気もするが、それとて、その理論的な内容など知る由も無く、音楽に関しては斯くのごとく文盲の状態である。
 しからば音楽は嫌いかといえばそんなことは無い。宴会などとなれば率先してマイクを握るほうである。ではどんな曲かといえばこれが困ったものである。勿論、「おじさん」の代名詞みたいな「ど演歌」ということになるが、実は自分としてはかなり耳新しいと思っているが、数えてみるとかれこれ二十年も前から歌っているものから一歩も進歩していないところが情けない。

 だいたい、「ザ・ピーナッツ」のころにはまだいっしょに口ずさめた。その後、山口百恵さんは勿論、かなりビジアル的な興味が勝っていたとはいえ、「ピンクレディ」や「キャンディーズ」、更には松田聖子ちゃんにも何とかついていけた。ところが中森明菜ちゃんになってそろそろ分からなくなり、安室奈美恵ちゃんになってからはさっぱり分からなくなった。

 思うに、日本のポピュラーミュージックは歌手のルックスを重視するようになってから面白くなくなったような気がする。歌の下手な分をルックスや踊りでカバーするということか。
 もっともこういうことを言うと叱られそうであるが、今は世界の「桑田佳祐」といわれるサザンオールスターズがデビューした頃、ジョギング姿ではしゃぎまくっているのを見て「音楽的な価値などまったく無い」と評したことに対して、後に「世界の桑田佳祐に対して何たる無知」と娘にこっぴどく叱られたことがあったので、以来「音楽の文盲」が要らざることは言わないようにしている。

 ただ、最近の日本のポップスを聞いていてさっぱり心地よさを感じないのである。いわゆる音痴の音楽を聞かされているような気がするのである。音には決まりがあるわけではないのだからどういう音を並べてのよいのかもしれないが、三宮駅前の「騒音」のようにやたらに騒ぎ立てて、葱のように節が有るのか無いのか分からないような曲が多い。
更に、歌詞の意味が不明である。かつてサザンの桑田さんが「ボーカルも楽器の一部」といったことがあったが、曲の雰囲気に合っていればどんな表現でもよいのかもしれないが、それにしてもあまりに意味不明な言葉がありすぎて曲への興味が湧いてこない。

 もっとも意味不明な詩になったのはサザン辺りからで、その点では詩の既成概念を打ち破った彼らの功績かもしれないが、今では英語交じりの意味不明の詩が既成概念に変わってしまったような気がしないでもない。どうせ洋楽の場合、歌詞など分かりはしないのだから雰囲気が会えばなんでもよいということか。

 かつてフォークソングやニューミュージックが一世を風靡した時代があった。古い演歌に拘泥する「おじさん」とってはいささか気になるところであるが、特にその詩には参った。「若造が」と粋がってみるのだが、実に自分の歩んださしたる人生でも無い人生観に符合するのであり「参ったな」と思うのである。

 絵にも具象画も有れば抽象画も有り、音楽だって当然それぞれの表現があって然るべきであると考えるのである。が、しかしである。最近のポップスと称される音楽にはあまりにも潤いが無い。音楽的には優れているのかもしれないが、なんとも無味乾燥で無機質な感じがする。ここでもテクノが勝り、ロマンが無くなったと言うことかもしれない。

 確かにコンサートにも足を向けないし、CDを買うことも無い「おじさん」を対象にしても意味の無いことかもしれないが、同じ国民として、これほどに乖離した音楽文化というのもあまり世界に類を見ないのではないかと勝手に思うのである。

 もっとも、明治維新を迎えたときの「おじさん」達もそれまでの長唄や謡曲などの伝統音楽から、ざんぎり頭が奏でる洋楽器の音楽に同様な戸惑いがあったのかもしれない。
 いまさらどうにもならないのであれば「音楽の文盲」としては「時代遅れ」といわれながらも、もうしばらく二十年前の曲を性懲りも無く歌う以外の方法もあるまいて・・・。(00.11仏法僧)