サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

203.「孤高の人」9

 昭和30年代の終りには、サラリーマンの所得が増すに連れて、レジャーの形も多様化していった。レジャーと言う言葉もこの頃一般化してきたのではなかろうか。

 この頃になると、企業の間にも夏休みと言うものが出現し、最初は4日位だったものが徐々に伸びて、1週間などという企業も出てきた。

 そして、私の場合も山への愛着が薄れるに連れ、登山道具を背負って、東北地方の海岸などを渡り歩くようになった。ただ、この背景には、山への愛着が薄れたと言うことより、より安易なものへ流れた私自身の弱さが大きな理由であったことにある。

 この頃は、何人かの寮生と共に、格安の周遊券を使って、東北地方の海岸と言う海岸は殆ど歩きまわり、更に離島にも足を伸ばした。勿論、これにはこれとしての楽しみもあった。

 確か、秋田の男鹿半島に行ったとき、途中山形県の鶴岡市の近くの湯の浜温泉に立ち寄っ時、海岸に出てびっくり仰天、泳いでいる女性がシュミーズだけで泳いでいるのである。 当然のことながら波が引くと体に密着するのであるが、暫し呆然と眺めた。これに味を締め、それから2年後に別の友人達と再び訪れたが、そのときはシュミーズ姿は一人もいなかった。

 昭和37年に私が山登りと決別する決定的な出来事があった。それは同期生であり、同じ頃共に山登りを始めたK君及びY君の三人で中央アルプスを縦走しようとなったのである。

 当初は山登りに関して烈々たるライバル心があったが、この頃になると共に東北旅行などをしていて、旅を楽しむと言う心境になっていたのかもしれない。

 時期はこのとき既に山小屋の番人はいなかったから、9月の下旬頃ではなかったろうか。今となったらコースも覚えていないが、伊那北駅で下車して延々と歩き始め、頂上近くになって池塘があった記憶があるので、濃ケ池を通って駒ケ岳山頂近くの山小屋(頂上山荘か?)に荷物を置いて、頂上の祠をお参りしている。

 ただ、小屋に至るまでの過程で、Y君の靴底が剥がれると言うアクシデントに見舞われたのである。辛うじて紐で結わえて山小屋までは到着したが、この時は空木岳まで縦走しようと言う当初の計画は断念せざるをえなくなったのである。

 その夜、誰もいない小屋の中にテントをはって泊る事にしたが、完全に1日分の食料が余ってしまった事になり、持参したウイスキ−なども大盤振る舞いをし、山の食事には似つかないような食事をして眠ったのである。

 ところが翌朝起きてみると、食料と言う食料は全て鼠にかじられていて、まともに食べられるものは殆ど残っていなかったのである。これを見たときに、私の山登りは終わったと実感した。生命維持の根幹でもある食料の管理も出来なくて、山登りなどできるはずがない。

 その特は下山途中の何処かの鉱泉宿に泊って、それなりに楽しんで帰ったつもりであるが、私の心の中には堕落したと言う忸怩たる思いがあった。

 そして、翌年の2月、山のアルバムには次のように書残して終わっている。
 「このアルバムは、私の青春の一ページであった。その時々で己の人生観の変化が手にとるようにわかる。極めて少女趣味的な考えであるかも知れぬ。しかし、当時の私としては、私の行動に全力を傾け、それによって得られた教訓は計り知れないものがあった。
 今こうして考えると、何かとてつもなく楽しい事だけだったような気がする。私の登山技術・能力は結局ものにならずに終わったが、山から得たものは普段の生活の中では比較にならないほど大きく、このアルバムもまたその一つである。
 やがて、私が老人になったあるとき、このアルバムを開いて見ても、決して一笑に付す事にはならないであろう。
 私の青春時代の情熱(多分情熱と言えるだろう)に打たれ、きっと何かを考えさせられる時があるだろう。私はこれからこうした山登りをするかどうか分からない。おそらくないかもしれない。それとも、再び私が歩いた幾つかの山の峰々をいつか歩くときがあるかもしれない。しかし、こんな純な気持ちの時はないだろう。私にとっては貴重な体験だった。そして楽しく、寂しく、苦しい一時点だった。」
 この2年後に結婚し、家庭を持ち、実社会の苦悩の時代に入る。

 ニッポン放送の創立者の一人であり、逗子八郎というペンネームで歌や随筆を書いた井上司郎氏が昭和17年に「武蔵野随筆」と言う本の中で、登山についてこんな事を書いている。

 「登山は突き詰めて言うと、自然との闘争、つまり自己の持つ全ての力を尽くし、自然に打ち克とうとする意欲が強く働いている。但し、自然に打ち克つと言っても、それは人間にとって都合のよい条件下に、自然に対する人間の目的を達成する事に過ぎない。」

 これが登山に対する一般的な考え方であったかどうか分からないが、文太郎が生きた時代より、さらに10年程後で、少なくとも登山と言うものは「山野逍遥(ハイキング)」等厚生を目的としたものと厳然と区別されなければならないと言われ、生命を賭して断固としてこれに立ち向かう武道的精神が必要である、と説いている。

 私の場合、そこまで突き詰めた考えはなかったが、単独で登っていた頃は、まかり間違えば生命に関わると言う緊張感は常にもっていたと思う。
 その後その緊張感が徐々に薄れ、やがて厚生目的どころか、友達と一緒に登るようになってからは分太郎の「孤高の精神」とは程遠い、単なる快楽まで堕落していったような気がする。

 その背景には、日本の高度経済成長の波に乗り、それなりの豊かさを得た事にも拠るが、その流れに知らず知らずのうちに押し流され、気が付いた時には人生の終末を迎えていたのである。もしかして、そのまま山登りを続けていたら、実社会で負った苦悩の何分の1かは克服できたかもしれないと今でも思っている。

 そして、再び山への情熱を呼び覚ましたのは、これから30年の歳月を隔てた55歳を過ぎてからである。(05.12仏法僧)