サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

202.「孤高の人」8

 翌昭和36年には、間もなく厳冬期を迎える11月の終りに、I君と八ヶ岳を登っている。それは翌年正月に南アルプス仙丈ケ岳に登るための足慣らしのつもりだった。
 ただ、この頃から私の山登りに対する情熱は、ある事件をきっかけに急速に冷めていった。

 それは、同期生であり、同じ頃山登りを始めた、Nの遭難事故であった。Nは私の仲間では、一番早くから何処かの山岳会に所属し、最も先鋭的な登山をしていたのである。

 当時、巷にうどの竹の子のようにある山岳会は、何れも先鋭的登山を目指し、新ルート開拓や、初登攀に鎬を削っていたと記憶している。

 Nもそうした一連の活動の中で、谷川岳の幽の沢の岩登りに出かけて、遭難死したのである。当日、会社にその一報が入り、会社の山岳部の人にYと私も加わり、救出に向かったのである。ただ、この時点で、ほぼ間違いなく遭難死したと言うことは伝えられており、遺体救出がその主な目的であった。

 現地に着いて、事故現場の幽の沢出会いに到着すると、Nが所属していた山岳会の人が「ここからは我々がやりますから、皆さんはここに待機していてください」と言う事であった。結局、救出される時間を見計らって、遺族を麓まで迎えに行く事と、足場の整備に当った。

 1時間程して遺体が救出されてきたが、パーティを組んだ相方は、まだ新婚ほやほやと言う事で、見るに偲びなかった。一方、Nは妹はいたが、一人息子であり、年老いた父親が、無残に割れたヘルメットを無言で叩いている姿を見たとき、山岳会に対する疑問が急速に広がってきたのである。

 この当時、谷川岳を始めとして、山での遭難が相次いで、取分け、同じ谷川岳一の倉沢の遭難は悲劇であった。二人で登攀中に遭難し、しかもその一方が岩場に中吊りになったのである。岩場はオーバーハングと言って、えぐれたように出っ張っていて、岩登りの手順以外では近づけなかったのである。しかも、近づいたとしても救出する事は更に困難と言われていた。

 結局、死亡している事が確認され、最終的に自衛隊に出動を要請し、中吊りになっているロープを銃で打ち落とすことによって救出する事になったのである。

 ただ、この救出作戦を通して、様々な意見が飛び交い、結果はどうであったかわからないが、山岳会のエゴが厳しく咎められた。この事件が一つの反省として、山岳会と言うものの活動にブレーキがかかった事は間違いない。

 それと同時に、古典的登山を標榜するワンダーフォーゲル(ワンゲル)と言うのが盛んになっていった。当時、私も通っていた大学のワンゲル部に入部を申し込んだことがある。

 ところが、初会合で部室に行ってみると、そこで歌を唄わされた。当時は歌声喫茶などが盛んな頃であり、ハイキングなどでも盛んに唄われていた。ただ、この事は、私にはどうしても受け入れる事の出来ない事で、一度の実質的な活動もしないまま退部した。

 その後、このワンゲルは山岳部のような先鋭的山登りはしないが、装備の大きさを競うかのような傾向になり、駅や町で大きなザックを担いだ人を見かけるようになり、列車や細い通りを横になって歩く事から、「蟹族」などと呼ばれるようになった。

 この傾向は益々エスカレートし、新入部員のしごきに、より大きなザックを持たせるところとなり、これが原因で、法政大学のワンゲル部で遭難死事故がおきたのである。この段階になって、私の何処かの山岳会に入ろうと言う思いは完全に消滅した。

 このような時に、私とIとの初冬の八ヶ岳登山計画が持ち上がった。この頃、会社の山岳部には冬山用のテントは無かった。当然のことながら、夏山用のテントで冬山を登るなどと言うことは無謀である事は承知していた。
 ただ、この頃簡易用のテント(ツエルトザックと言った)は持っており、これを夏用テントの中に張って、冬山登山ができるかどうか試したかったのである。

 結果は、山岳部の連中と、顧問の管理職にこっぴどく批判され、已む無くこの計画は断念し、11月厳冬期に入って小屋泊まりで、再びI君と二人で八ヶ岳に登ったのである。

 この時は本格的冬山登山に備えての足慣らしにつもりで赤岳鉱泉に止まり、1日目は阿弥陀岳を登り、最高峰赤岳手前のコルまでとし、再び赤岳鉱泉に戻った。この当時は赤岳鉱泉は冬場は無人であり、小屋の中でツエルトザックを張って、その中で寄り添うようにして眠ったが、想像以上の寒さであった。

 2日目は北の尾根を通って、硫黄岳に登った。このコースは文太郎が厳冬期に登ったコースだが、文太郎は更に本沢温泉まで足を伸ばし、再びこのコースを戻っている。

 この日は少し新雪が舞ったが、横岳、赤岳は縦走せずに、そのまま赤岳鉱泉に戻って下山している。この時は冬山の全くの初心者と言う事で、北風も強く、岩場の多い横岳を通る事はあえてしなかったのである。

 そして、翌年37年の正月、南アルプス仙丈ケ岳にI君と共に登った。この時は、飯田線伊那北駅まで行き、そこからタクシーで戸台まで行ったと記憶している。そこから更に、歩いて前に登った甲斐駒ケ岳と、仙丈ケ岳の間にある北沢峠まで登り、北沢長衛小屋に泊ったのである。

 北沢長衛小屋も当時は無人であったように記憶しているが、この時は正月を冬山で越す登山者でごった返していた。私たち二人は2階に泊る事になったが、自分たちの寝場所を確保するのがやっとで、下の階で燃やすストーブの煙に終日悩まされた。

 その上、食事の準備をしている時、雪を溶かして水を確保している最中に、I君が携帯コンロをひっくり返したため、コッフェルに並々とたまった水を一気にぶちまけたため、下の階の溢れ出したのである。

 当然のことながら、下の階から何処かの山岳会のメンバーの何人かが、血相を変えて駆け上がってきて、口汚く罵られ、初めて迎える冬山での新年に燃え上がっていた高揚感が一気にしぼんでしまった。

 翌日、千丈岳の広い山頂で方向を見失わないよう細心の注意を払いながら山頂の丸い方向指示板を確認し、ほうほうのていで小屋まで戻った。更に1泊して下山したが、コッフェルをひっくり返した失敗は帰りの車中まで尾を引いた。

 勿論冬山と言う事で、この失敗を単純に謝って澄む事ではなかったが、この出来事があってから、山への情熱は一気にしぼんでしまった、と言いたい所だが、実は、もう一つ大きな理由があった。

 それは、この頃になって、日本の産業界の高度成長傾向が始まり、サラリーマンの所得もそれなりの増えていった事も理由の一つであったかもしれない。(05.12仏法僧)