サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

201.「孤高の人」7

昭和35年の圧巻は、なんと言っても7月30日か、8月2日までの飯豊連峰の縦走である。飯豊連峰と言うのは、福島県と山形県に跨る知る人ぞ知る雄峰である。

 この時は初めて4人のパーティを組んで登ったのである。同期生のY君、後輩のI君、それから会社の先輩のK氏の4人である。何故K氏が入ったかと言えば、K氏もY君も同じ地元の福島県出身だったと言うことである。

 前日の夜行で上野を発ち、早朝に米沢で米坂線に乗り換え、小国で下りたのである。小国から荒川の支流、玉川に沿ってバスで登山口に向かったのであるが、当時どの辺りまでバスが通じていたのか記憶が無い。バス停から夕方まで歩き通して、着いた所が梅花皮沢(かいらぎさわ)という大きな沢の雪渓の裾であった。

 この飯豊連峰は、最高峰が2105メートルの飯豊山だが、当時、何所から登り始めても、1日で頂上や稜線に辿り着ける所はなく、また、山小屋なども一軒もなかった。したがって、その日は雪渓の裾にあった大きな岩の上にテントを張って、キャンプしたのである。

 翌日はこの梅花皮沢の大雪渓を朝から登り始め、その日の午後、ようやく稜線に辿り着いたが、途中から横殴りの雨になった。

 ただ、ここですんなりと辿り着いたのではない。梅花皮沢雪渓は途中から石転び沢と滝沢に分かれており、右の石転び沢を登って稜線を目指していたが、雪渓の最奥部は岩肌から雪渓が剥がれ、クレバス状になっていた。ようやく雪渓を登りつめ、岩肌をトラバースしていた時、私が足場にしていた草付きがずるずると崩れ始めたのである。

 急いで腹ばいになったが、そのまま何メートルかずり落ち、もう少しで雪渓との割れ目に落ち込むようになったところで、一瞬止まったのである。急いで体制を持ち直して、事なきをえたのであるが、当時、この時の事を次のように記している。

「センタク沢(?)の分岐点に到着する。途中よりヴァリエーションに(枝道)はいる。尾根路30メートルのところで滑落15メートル、初めて死の恐怖を味あう。山を甘く見てはならない。
 状況:登攀中に足元の砂が崩れる。草付きと岩の間を落下、考えた事は死と、「掴まろう」とする事のみ、瞬時起き上がる事出来得ず。身体の傷僅か。」

 となっているが、この時ベストだけで登っていたため、腹部にかなりの擦過傷を負った。

 ようやく北股岳(2024)と烏帽子岳(2017)の鞍部に到着したが、風は益々強く、稜線のやや風下によった僅かな平地にテントを張り、キャンプしたのである。現在は、この辺りに梅花皮小屋があるようだが、その夜、強風は一晩中吹き荒れ、テントが吹き飛ばされるのではないかと心配した。

 翌日は、快晴と言うことではなかったが、風も止み、雨も小ぶりになっていた。ここからは稜線歩きと言う事で、本来は最も楽しめるコースであるが、視界は殆ど利かなかった。

 飯豊連峰と言う山は、標高はあまり高くないが、山が深いと言う事で、あまり人が行かない山である。したがって、山本来の姿をそのまま残しており、途中至る所に雪田と言う雪の溜まりがあった。これらがふんだんに咲き乱れる高山植物とあいまって、正に天上の楽園だった。

 主峰飯豊山にはかなり早い時間に着いた。頂上から少し下がった稜線上に飯豊神社の祠があった。現在はこの近くに頂上小屋があるようだが、当時は何もなく、この近くの雪田の縁でキャンプした。テントを張り終える頃から、天候も回復し、晴れ間も見えるようになった。

 その日の夕食は昨日と打って変わって、和やかなものになり、雪田の雪に持参したウイスキーでオンザロックを作り乾杯した。

 その日の夜、麓の何処かの町で花火大会があったのだろう。雲海の割れ目のはるか下のほうで、野菊のような可憐な花火が、パッと上がり、この時の光景は生涯忘れる事が出来ない。

 翌日は、草履塚と言う所は通った記憶があるが、その後のルートは定かではない。気の遠くなるような長い下り坂を下っているので、種蒔山を経由して、新長坂道を通ったのかもしれない。行けども行けども人家など見えてこず、四人ともみな無言で下った。

 かなり降りてきたところで、下って来る小さいトラックに合い、途中まで乗せて貰う事になり、その時の喜びと言ったら口では言い表せないものであった。

 車と別れた所で、ようやく小さな商店があり、そこでビールを買って四人で分け合って飲んだが、飲むと言うより、放り込むと言う感じで、喉を一杯に広げてもなかなか入っていかないようなまどろこっしさを感じた。

 この飯豊連峰と言う山は、雪田はふんだんにあったが、水場の無い山で、その事も近寄り難い理由の一つであったのかもしれない。

 斯くして、私の唯一と言っても良いパーティを組んだ山登りは終わってが、チョッピリほろ苦さを味わった山登りだった。その時の事を次のように書残している。
「雪渓を吹き下りるガス(濃霧)、その下を流れる谷川の音、密生する高山植物、これらの全てが、私の思い出の一つとして脳裏に刻み込まれていく。梅花皮沢はガスに閉ざされその姿を見る事は出来ない。ただ、意味も無く両の足を運んだ。人間、私としての意地で。
しかし、楽しさも、喜びも無く、消え去ったガスの後には、空虚な空しさのみが残った。
虚飾の友情か、己の未熟さか・・・。空ろな眸は空しく空に放たれ、ただ、個性のみが醜く引きつっている。
生死の中に培われた友情も無く、極寒の夜空の下で交わされた言葉も無く、ひと時の感傷に終り、現実のみを何時までも何所までも背負っていかなければならないのだろうか」
 今考えるとそこまで悲観的に考えていた訳でもなく、何かを求めているのに、その一方でそれを懸命に避けようとする、若者特有の背反性であったのかもしれない。

 何れにせよ、文太郎も登った事も無く、当時はパーティを組まなければ登り得ない山を、登り得た事は忘れる事の出来ない思い出であり、結構楽しい山登りであった。(05.11仏法僧)