サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

200.「孤高の人」6

 昭和35年には、一気に登る回数が増えている。まず、3月に再び奥秩父登っている。ただ、この時は、独身寮の後輩I君と一緒だった。I君は私より二つほど後輩だったが、のんびりした性格が、せっかちな私にあったのだろうか、その後も何回か一緒に登っている。

 この時は、2年前と同じ奥秩父全山縦走を目指したのであるが、3月と言うのはまだ残雪期であり、場合によっては冬山並みの状況になる事を予想してのものであった。

 更に、前回の失敗に懲りて、雲取山で一泊する事にして、雲取山までは順調に登ったが雲取小屋はこの時期無人であった。いざ夕食を作る段になって重大なミスを犯していることに気がついたのである。

 それは、携帯コンロの燃料を間違えてきたのである。もともとは、ガソリンを燃料にしているのだが、このガソリン燃料がスポーツ店に見つからず、やむ無く発火点の低いアルコールにしたのであるが、いざ使う段になったら、まるで使えないのである。

 今考えれば、ガソリンスタンドに行けばいくらでも手に入るものであったが、小さな缶でガソリンスタンドで売ってくれるものとは全く考えていなかった。

 其の夜は、持参したメタ燃料(固形燃料)で夕食は作ったが、それではこの先の縦走計画が成り立たない。結局、翌日は笠取小屋まで行って一泊し、翌日には塩山を目指して下山したのである。

 途中、2年前にビバーク(野営)した跡に、僅かに焚き火をした痕跡が残っていて、その時の事を次のように書残している。

 「あの日は朧月夜だった。そして2年、俺は再びこの山に登った。重く物寂しい雲が空を覆い、僅かな雪が山道を固めている。あの日の紅葉はない。だが、ビバークのあの場所は、今日も変わりが無い。
 樹間を透した月の光は早春の陽光に代わり、漆黒の壁は、枯れ木の襖でも、やっぱり俺を待っていてくれた。路面に散らかった一握の消し炭は忘れがたい俺の思い出だ。
 俺は暫くその場所に立ち竦まずにはいられなかった。手中に収めた一片の黒い塊は、するりと手の平から抜け落ち、土の中に消えた。でも、俺の思い出は消える事も無く、寂しくも楽しい思い出として何時までも残る。
 ありがとう、俺は再び群衆の中に帰っていく。帰らなければならない。」

 そして、5月3日から故里の山、再び八ヶ岳を登っている。八ヶ岳もこの時期残雪期であり、日によってはまだ雪が降る。

 この時は中央線小淵沢駅から歩いて編笠岳(2523)を目指したが、例によって、登り口を見つけるのにかなり手間取った。深い樹林帯を編笠岳を目指してもくもくと歩き、編笠岳の急坂はかなり往生した。その後、権現岳を経て、その日はキレット小屋に泊ったが、夕方から雪が舞った。

 「夕靄の中に君は立っている。あんなに親しみやすかった君が、ボクの手の届かない遠い、高いところから見下ろしている。
 でも、いいんだ、ボクは君の膝に抱かれて、心ゆくまで眠り、目が覚めた時、そこにまだ君がいてくれれば、何時までも見守っていてくれ。
 ボクが君に近づけば近づくほど、君は遠くへ離れてゆく。
 ボクが君に追いついたとき、そのときボクは、きっと君のような白く冷たい肌でじっと空を黙って見つめているかもしれない」

 キレット小屋もこの時期無人で、水場も無い粗末な小屋だった。この日は2階に泊ったが、下の階で火を焚く煙にモロに燻されてて往生した。

 「小屋の列車は勢いよく煙を吐いて走ってゆく。
 暗い闇の中へ二本のキャンドルの光とともに猛烈に走りこんでゆく。
 汽笛の音、ピストンの響き、畜生!俺の枕元で、足元でやたらと聞こえてくる。
 煙がやたらと目に染みる。ふぇー苦しい、もう沢山だ!
 俺はガバッとシラーフの中から起き上がった。
 そして枕元の濁り水を牛のように音を立てて飲んだ。
 目を擦って、窓から首を出したら、もう朝だった。
 チェッ、まだ九時間しか眠っていないのに・・・。」

 この時は、赤岳、横岳、硫黄岳を縦走して、更に北八ヶ岳の天狗岳を登って、黒百合ヒュッテを経由して、茅野駅に出たように記憶しているが、天狗岳からのルートは定かではない。
 ただ、茅野駅前で食べた蕎麦が無性に美味かった記憶だげが鮮烈に残っている。(05.11仏法僧)