サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

199.「孤高の人」5

 翌年、昭和34年7月22日から27日には、一転して南アルプス登っている。当時も今ほどではないが登山ブームで、取分け北アルプスの山小屋の混雑振りは想像以上であった。
 寝る場合に、体一つの幅を確保するのだやっとと言う状況で、少しでも到着が遅れると、廊下などで寝泊りすることになった。その最大の理由は、施設がいまほど充実していなかった事にあった。

 その点、今でも同じような傾向にあるが、南アルプスの場合は登山者が比較的少なく、北アルプスほどの混雑はない。その理由は、南アルプスの場合、山へのアプローチが長く、しかも山が深いと言うことにあった。

 文太郎の登山歴を見ても、昭和15年8月に伊那側の戸台から仙丈ケ岳を登ってから甲斐駒ケ岳を登り、私が登った甲州側の下りている。ただ、この後八ヶ岳、浅間山を登っているが、その後は南アルプスは登っていない。これは主に山小屋などが整備されていなかったためだったのかもしれない。

 前夜、新宿を発って、翌早朝に中央線韮崎駅で下車して、甲斐駒ケ岳登山口の駒ケ岳神社に向かったのである。
 心配した登山口は比較的簡単に見つけ出し、いよいよ駒ケ岳を目指して登り始めた。ただ、登り口から黒戸山(2253)までの標高差1500メートルは、正に想像を絶するもので、五丈目小屋に到着して、ザックを卸した途端に眠り込んでしまった。

 その日の泊りは、更に登って七丈目小屋である。ようやく辿り着いたときには精も根も尽き果てて、小屋の印象や何を食べたか全く記憶にない。
 ただ、前年までの失敗に懲りて、この時から食事道具はかなり充実していた。まず、ラジュ−スと言う外国製の携帯コンロと、今では一般的になっているコッフェルと言う炊飯器を購入していた。その他、食事内容もそれなりに充実させていた。

 文太郎は、登山中に甘納豆と小魚を炒ったものをポケットに入れて、体力の消耗にあわせてかじっていたと言う事であったが、私の場合はもっぱら乾パンをポケットに入れて、時々食べるようにしていた。

 翌朝、最初の目標である駒ケ岳の山頂を目指した。七丈小屋から駒ケ岳(2965)までは標高差700メートルほどであったが、それほどきつかったと言う記憶はない。途中から、花崗岩の岩場になったことが樹林帯を歩くより気分がよかったのかもしれない。

 駒ケ岳山頂ハ険しい花崗岩に覆われていたが、その日の行程を考えた場合、ゆっくり景色を楽しんでいる余裕などなく、急な岩場を注意して早川尾根に向けて下った。

 この南アルプスと言う山は、一つの山を登ると、一旦とことんまで下りて、そこから再び登り始めるのである。駒ケ岳山頂から、仙水峠まで標高差700メートを一気に下り、栗沢山まで再び500メートルを一気に登りなおすのである。これほど一度確保した標高を失ってしまう不合理を感じさせる山はない。

 そこから更に4キロあまり早川尾根の樹林帯を歩くと広河原峠に差しかかる。広河原峠から、南アルプス特有の深い原生林に覆われた急な坂道を930メートル下ると間もなく野呂川の源流広河原小屋に出た。

 日本で二番目に高い南アルプス北岳(3192)を目指すのはこの広河原小屋になるが、今では甲府からバスで直行出来るが、当時は、駒ヶ岳経由の他、鳳凰三山の薬師岳か地蔵ガ岳を経由するしか道はなく、広河原には二日を要したのである。

 当時の広河原は、文字通りの広い河原で、丸木橋を渡った所に平屋の無人小屋があった。小屋に入ると真中に土間の通路を挟んで、両側に板の間があった。

 余談になるが、山でのロマンスと言うのは誰でも心ひそかにに期待しているものであるが、意外に無いものである。それと言うのも、今と違って、当時山登りすると言うのは女性にとって、それほど一般的ではなく、どちらかと言う特殊(いかつい)な女性だったのかもしれない。

 そうした中で、唯一忘れがたい女性との出会いがあった。丁度私の隣がその人の寝場所であり、隣同士で食事の準備などをしながら話をしたのである。名前は、三輪恭子さんと言って、東京の三鷹からきていると言う事であった。

 当時、独身寮での生活で、およそ女っ気などない生活の中で、一際光彩を放つ出来事であったが、帰ってからも二度ほど文通をしあったが、どちらともなくいつ日か立ち消えてしまった。

 翌日は、いよいよ日本三大急坂の一つ、草滑りの急坂を登って北岳を目指す事になる。この草滑りの急坂は、白根お池(2236)から、小太郎尾根まで、標高差600メートルあまりをほぼ直登で一気に登るのである。

 前年、中房温泉の急坂を登っているが、印象ではその比ではなかった。特に草いきれのする暑い中、思いザックを担いでの登攀であり、あたかも土を舐めるほど体を屈めて登り、小太郎尾根にへたり込むように辿り着き、この時の印象を次のように書残している。


 「草滑りの急坂は思ったより酷い・・・。甘ったるい草花の香が息が詰まるほど漂っている。明るい草原を一目散に駆け下り、小さな木立の陰にみを沈め、「もういいよ」と小さく叫んでみたい。でもやっぱり、北岳は木立の上からニッと牙を出し、「こっちだよ」と笑っていた。
 俺は顔をクチャクチャにしながら北岳の肩に腰を下ろした時、思わず「エヘヘヘ・・」と一人で笑ってしまった。だって、見ろよ!あの駒の野郎が蟹のようにブクブク泡を吹いているのだから。あいつはまだ俺がここまで来ているのを知らないのだろう。だってそうだろう、でなくちゃ、あんなにのんびり洗濯なんかしていられないんだから・・・」


 振り返ると、昨日悪戦苦闘した駒ケ岳が眺められ、やっとここまで辿り着けた事が無性に嬉しかったような気がする。

 三日目は北岳の石室に泊った。現在は北岳山荘と言う立派な小屋があるが、当時はこの東南斜面に石室があり、ここに泊った。
 この時はコンビーフの缶詰を持っていったが、これを味噌汁に入れたために、その後、歩いている間中この匂いと、顔の前を飛び交う蝿に悩まされた。当時、コンビーフと言うのは最高の缶詰のような気がしていたが、残念ながら料理の仕方が分からなかったのである。

 翌日は、中白根岳(3055)ら、間ノ岳(3189)を経て、農鳥岳(3025)に登り、いよいよ標高差2000メートルの大門沢の大くだりを下ったのである。
 現在は奈良田温泉と言うのがあるようだが、当時は西山温泉まで、人家らしいものは全く無く、下れど下れど向こうの稜線が一向に下がってこないのである。

 現在、奈良田湖というダム湖があるが、私が登った頃は丁度この工事始まった頃だろうか、所々に「発破注意」のたて看板があり、びくびくしながらもわき目もふらず歩きつづけた。

 その日、川岸に建つただ一軒の宿、西山温泉に一泊し、翌朝下山したのであるが、二度とこの山には登るまいと心に誓うほど過酷な登山だった。ただ、この時期、単独でこの山を登り得たのは、若かりし頃の誇りであったような気がする。(仏法僧05.10)