サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

198.「孤高の人」4

次の単独での山登りは、翌年の昭和33年8月2日から6日までの4日間であった。
この辺りも文太郎とはかなり開きがあるが、当時の月給は、1万円程度で、それから様々な控除があって、寮費などを引くとせいぜい5千円程度ではなかったろうか。

 寝泊りと食事には寮にいる限り心配ないとしても、山登りのための交通費やその他の費用を考えると、おいそれと行けるものではなかった。
 
前夜新宿発の夜行に乗って、翌日信州大糸線の有明に着くのである。当時夜行列車でもかなり混雑していて、座席が確保できれば幸運である。発車のかなり前から行列が出来、その行列に並んでじっと待つのである。

 その頃、大きなザックを背負った登山者が多く、取分け山岳会に所属しているものは、装備も服装も際立っていて、憧れの眼差しで見たものである。ただ、こうした登山者に限ってエリート意識が強く、排他的に感じたのは私の僻みだったのだろうか。

 そして、この時から、生れて始めて自分のカメラを持ち、前回の失敗に懲りて、山日記をつけるようになった。ただ、この当時からの写真のアルバムはあるが、山日記はどこかに紛れ込んで見つからない。

 当日、有明駅からバスに乗って、中房温泉に向かう。中房温泉からの登り口は、案じていたわりに直ぐに見つかったが、ここからの登りは日本三大急坂と言われる急な坂道で、登り始めて直ぐに、果たしてこの山行きが最後までやり遂げられるか自信がなくなった。

 途中から百歩登って、後ろを振り返るの連続で、前途多難を思わせた。このときの様子を当時のアルバムで追ってみる。

八月二日
 中房からの急坂・・・、黒斑帯(原生林帯)をあえぎあえぎ登るとやがて合戦小屋に着く。法螺貝の音が朗々と響き渡るかの如く錯覚を起こすようなガス(濃霧)が山肌を掠め去っていく。

 眩いばかりの緑と、鼻を突く裏白ナナカマドの香が周囲に漂っている。
「燕岳はまだか!」

 しかし、まだその華麗な姿を見ることは出来なかった。ただ、ガスのみが音もなく流れ去り、その中に溶け込むかのようなだけかんばの陰が美しかった。

 這い松の緑と、雪かと見まごうばかりの白砂、その美しい山肌を生き物のようなガスが片面を抉り取っていく。しかし過ぎ去ったガスの後には、この雄大な自然の庭園は何もなかったように悠然としてその巨体を横たえている。

 アルプス銀座・・・、いや、少なくとも私はそう呼ぶまい。それが私の山に対するせめてもの愛のしるしなのだから・・・。たとえ、この美しい白砂の上を誰が歩もうとも、それは私の知った事ではない。私の心の中に去来するこの山のイメージは永遠に変わりはしないのだから。
(燕山荘にて)

八月三日
 空は、私の出発を祝うかのごとく美しく晴れ上がっている。遠く、剣・立山連峰が望められる。朝日に照らし出された山々のシルエットが美しく、雄大に広がっている。

 この美しい創造物を私も含めて誰もが荒らしてはならない。人は己の手によって己を滅ぼそうとも、この自然のみは永遠に残しておきたいものだ。私はいずれの日にか再びこの山を登るか・・・、それはわからない。しかし、この美しい姿を、山は何時までも持ちつづけていてくれ。

 (大天井岳から東鎌尾根の喜作新道を通って、槍ヶ岳を目指したのであるが、近づくに従い、槍の穂先は山と言うより、巨大な創造物のような気がした)

 この頂上に立った時、私の胸に去来したものはなんであろうか。喜び・・・、いや、決して喜びではなかった筈だ。赤錆た空き缶、風化した祠、夕闇に煙るケルンのシルエット、全てが悲しみに近い寂しさであった。

 人間、あるときは孤独を追い求め、寂しさを胸に刻む。しかし、何時までも孤独でいる事は出来ない。
 漂雲のように味気なく過ぎ去る人生、しかし、人は人の元に返らねばならない。
耐えられぬ孤独感によって空腹が満たされた時、人はまた群集の中に帰ってゆく。
(槍ヶ岳穂先にて)

八月四日
 5時に起床。私の体まで白くなるようなガスが巻いている。昨日の苦痛を考え、このまま槍沢を下ろうか・・・。しかし、私にはその勇気はなかった。例えこの自然の中に私の白骨が晒されようとも、行くところまで行く。ただ、私の脳裏を掠めたのはそれのみだった。

 一時でも長く、一歩でも遠くへ、私は歩きたい。昨日の悪戦苦闘の場は、私をあざ笑うかのように長々とその巨体を横たえ、私の後姿を眺めている。

 そして、今日の難コースが私の前方に、両手を広げて立ちふさがっている。それでも私は行く。君は如何に私を制止しようとも、私は君のその厳しさを愛するのだから。
私の無力を笑ってくれ。私は君を征服しようとも、決して君を笑_ような事はしない。
君の力強い肩車に乗って、いつまでも、いつまでも、子供のようにはしゃいで居たいだけなのだ。
(槍ヶ岳山荘にて)

八月五日
 モルゲンロートの中に静かに前穂高岳のシルエットが現れる。私は、押さえきれない喜びと、寂しさを感じた。何人の私の先輩達がこのシルエットの中に消えていったことか。

 湧き上がるガスと共に、消えていった兄弟達の悲痛な叫びが続いている。
やがて、消え去った呼び声は、二度と木霊して来ず、雲海を渡って来る船の陰も見えない。

 滝谷は今日もハーケンを打つ響きが木霊するが、過ぎ去った年月と、消えていった叫び声は今日も帰ってこない。
 落石の音は、時の経過を告げ、悲しみを蹴落としてゆく。

 山・・・、山・・・、私はこんな無情の山など行きたくはない。
しかし、私は山に登らなくてはいられない。
 どうしても、この醜い社会を離れなければならない。
例え、一時でも静かに死んでしまった時間の中に、私の五体を横たえないといられない。
(穂高岳山荘にて)


 これは「孤高の人」に書かれている文太郎の最初の山登りと同じコースであるが、分太郎はこの後更に富士山に登っているのである。この後、前穂高岳を登って、重太郎新道を下って上高地に出たのである。今読むと、無理してセンチぶる若者の駄文であるが、或いはもっとも純粋に生きた一時期であったかもしれない。(仏法僧05.10)