サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

197.「孤高の人」3

 私にとって本格的な山登りは、昭和32年の10月に入ってからである。文太郎に比べて、これが本格的な登山とはいえないかもしれないが、とにかく単独での宿泊を伴う山登りの始まりだった。

 それは奥秩父の雲取山から、甲信国境の金峰山までの縦走と言うことである。この当時はこの縦走計画がさほどのものとは思っていなかったが、定年後、あるパソコンフォーラムに50年前のこの縦走に付いて書き込みをしたところ、秩父連山完全縦走と言う事でかなりの反響があった。

 私のとっては何処かの山岳会に入るための足慣らしの第一歩程度に考えていたが、実際は容易ならざるものになったのである。

 当日、早朝に川崎市の独身寮を出て、渋谷、新宿、立川で乗り換えて青梅に向かい、青梅からバスに乗り換えて登山口で下車したが、さて登り口が分からない。ようやく探し当てて登り始めたときは既に10時を回っていたのかもしれない。

 登り始めての1時間は後悔の連続で、このまま引き返そうかと何度思ったか知れない。ようやく雲取山(2017)の山頂についたときは既に午後の三時を回っていたのではあるまいか。

 そもそもこの山行きを私は、二泊三日で踏破しようと言う無謀な計画を立てていたのが間違いで、その根拠は人の歩行は1時間1里(3.6キロ)と言う小さい頃からの思い込みである。一時間一里だから、山歩きならその半分程度と考えて、その第一日を笠取小屋としたのである。

 笠取小屋と言うのは雲取小屋から17キロほど離れており、尾根伝いの道の途中に有るが、それでも5時間以上の道のりである。それを夕暮れも近い時間に歩き始めたと言うこと自体が無謀であったが、当時はそう言う考えは全くなく、兎に角歩きつづけて、遅くになっても到着しようと思っていた。

 雲取山からの道は尾根伝いであるので快適であったが、秋の日は釣瓶落し、まもなく日が暮れたが、懐中電灯の明かりを頼りに歩きに歩いた。

 その日は丁度満月に近かったのか、鬱蒼と茂った樹林を抜けると、辺りは煌々とした月の光に照らされていて、それが何度も錯覚を起こしたのである。深い樹林の向こうにぽっかりと明るいところがあり、それが山小屋のように見え、足を早めて到着すると、辺りは物音一つしない深い森に囲まれていた。

 そのような事を繰り返し、一体何時ごろまで歩いたのだろうか。とうとう今夜中に到着する事を諦めて、路上で野宿する事にしたのである。それから何年か後に、後輩のI君と同じコースを、今度は早春の3月に登ったことがあったが、この時、当時野宿した跡に小さな炭の塊を見つけて、そこが大洞山の近くであった事を後になって知った。

 当日、夕飯は持参した食パンをかじり、大き目のダンボールに入れたザックの中身を全て出して、ザックの中に寝袋ごと体半分を押し込んで寝たのであが、当夜は快晴で、雨に遭わなかったのが何よりの幸いだった。

 翌朝、回りから枯れ枝を集め、火を焚いたが、始めは勢いよく燃え上がるが、直ぐに消えてしまい、結局、朝飯も昨日の残りを食べて出発したのである。

 出発して間もなく将監(しょうげん)峠にかかり、縦走路からかなり外れた所にある将監小屋に向かって「おーい」と声をかけたが、人の姿は見えなかった。すると、急に寂寥感が溢れ、人恋しさに涙がでそうになったのである。

 1日目の予定にしていた笠取小屋は、思いのほか遠く、小屋の到着したのは日がかなり上がってからではなかったろうか。笠取小屋は広い平原の中にあり、笠取小屋にも誰もいなかった。そこでしばらく休憩し、腹ごしらえをして歩き始めたが、昨日の無理はかなり堪えて、雁峠からの登りは、限界に近いほどであった。

 雁峠から古礼山(2112)にかけて、辺りには夥しい枯れ木が林立し、寂しさが身にしみた。雁坂峠にある雁坂小屋に到着したのは、比較的早い時間だったが、昨日の失敗に懲りて、結局、二日目の予定である大弛(おおだるみ)小屋を断念して、雁坂小屋の泊る事にした。

 この頃にはある程度体調は回復していたが、昨日から登り始めて、二日ぶりに人に出会ったのが嬉しくて、ここに泊ったと言うのが本音であったかもしれない。ただ、結果としてこの決断は正解であった。

 この時は飯盒は持参していたが、今朝の野宿での火を焚く事の難しさから、飯盒炊飯をしておかなければ、今後の食事にこと欠くと言う事情もあったような気がする。ただこのときの飯盒炊飯は、あまり調子が良くなく、芯の残った飯になった事が、その後の登山計画で大きな反省材料になった。

 当時、副食らしき物は鯨の缶詰と、味噌と魚のソーセージ程度ではなかったろうか。山の食事の準備の重要性をしみじみと味合わされる山旅となった。

 翌朝は、雨は降っていなかったが、雲行きはかなり怪しく、そろそろ冬の準備に入った山道は寂しさが一段と募った。
 信州、甲州、武州の三国にまたがる甲武信岳(2475)を過ぎて、延々と続く樹林帯を歩きつづけ、ようやく奥秩父最高峰の国師ケ岳(2591)の到着したが、山頂は寒風が吹き荒んでいて、登頂の感激などなかった。逃げるように下って大弛小屋に到着したが、小屋は小さな無人小屋で、その日は3人ほどの登山者がいた。

 これから金峰山を登って甲府に下りるのは、とてもこの時間では最終列車はおろか、何時頃帰り着くか当てがない。結局、その日は大弛小屋泊りとしたが、飯盒炊飯するための燃料がない。同宿の3人は固形燃料(メタ)を持参していて、食事の準備をしていたが、仕方がないので、昨夜の残り飯に、味噌と食パンの残りを千切っていれて、分けてもらったお湯を掛けて、無理やり口に掻き込んだ。

 翌朝は、霙交じりの雨の中を出発した。今日は金峰山(2599)を登って、甲州側に下りる予定だが、金峰山までは今までの行程から見ると目と鼻の先である。ところが、ここで重大な過ちを犯してしまったのである。

 金峰山という山は私の故里からでも遠望でき、この山を特色付けるのは頂上に五丈岩と言う岩峰がある事である。ところが、私の故里から見ると、この岩峰が幾つか有るように見えたが、実際は、その手前にある瑞牆(みずがき)山の岩峰と重なって見えていたのである。

 金峰山の頂上に立って、目の前に瑞牆山を見たとき、「金峰山はあそこだ」と錯覚し、瑞牆山を目指して下山し始めたのである。
 現在は金峰山小屋と言うのがあるようだが、当時はなかったように記憶している。人の踏み後を便りに下山しかかったが、やがて踏み後も消えて、道らしきものもなくなって、始めて道を間違えたことに気がついた。

 小さい頃から、父から山で道を間違えた場合、決して沢を下りてはならない、尾根側を上れと言われていたが、その禁を犯し、沢を降りたことになる。重い荷物を背負って、沢を上ると言うことは、下の向かって生えた笹や潅木を掻き分けて登ることであり、その大変さは下る時の比ではない。

 遭難一歩手前の状態で、再び頂上に戻ったときは着衣はぐっしょりとぬれていた。五丈岩をめぐった時に下山中の一人の登山者に会い、「これで助かった。どんな事があってもこの人から離れずに付いて行こう」と決めたのである。

 そこからは一気の下りであり、途中から材木切り出し用の木道にかわった。そしてその木道の上をわき目も振らず必死に歩いた。
 現在、地図で見ると御堂川に沿って歩いたのだろうか。ただこのときはまだ金峰山に登ったと言う意識はなかった。同好者にその事を言うと「金峰の頂上を登らないでこの道に出られたっけ」と不思議そうな顔をしたので、初めて気がついたあのである。

 最初に人家が見えたのは黒平と言う集落であった。金峰山の頂上からおよそ16キロ、大弛小屋から金峰までが4キロ、そこに道を間違えて引き返してくるまでがあり、しかも昼食抜きと言う凄まじさで、この山旅が如何に無謀であったかと今更ながらあきれる。

 当時黒平から甲府行きのバスはなかったように記憶しており、そこから更に10キロばかり離れた大きな神社(金桜神社?)近くの旅館の風呂場の焚き口で、しばらく暖を取らせて頂いて、バスで甲府に出たわけである。

 文太郎の六甲全山縦走には足元にも及ばないが、今考えてみても、主に下りだったとは言え1日に30キロを超える歩行は並大抵なものではない。

 甲府では既に夜となり、しかも着衣はぐっしょりと濡れており、途中、隣に座った人が私に触れて急いで身を引いたほどであった。独身寮に帰り着いたのは、かなり遅い時間で、、同室の先輩から、もう1日遅れるようだったら警察に届け出るつもりだったと聞かされた。

 この山登りが、私にとって忘れがたいものであった理由の一つに、ちょうど私が登っている間に、人類最初のソ連の人工衛星スプートニク1号が打ち上げられた事で、無謀とは言え、何時までも心に残る青春時代の1ページであったことは間違いない。(仏法僧)