サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

196.「孤高の人」2

 私が山登りを始めたのは東京に出てきた翌年の昭和32年からである。と言っても、文太郎に対抗して、登山を始めたわけでも無いし、また文太郎との比較でこれを書こうと思っているわけでは勿論ない。

 寧ろ比較の出来る相手でないことは十分知っている。ただ、私が山登りを始めた頃は、今とは違った登山ブームであったかもしれない。ただし、このブームと言うのはある程度限られた若者間のことであったような気がする。

 最近の様子は分からないが、巷には「○○山岳会」などというのが、多数結成され、山の雑誌などにも会員募集の広告が所狭しと載っていた。ただ、この募集と言うのも、ある程度実績を重視し、誰でも入れると言うものでもなかったと記憶している。

 当時の山を目指す若者にとって、名の通った山岳会には入れると言うのは、一つのステータスのようなものではなかったろうか。
 そして、若者の遊びと言えば、マージャンあたりが全盛で、健全な遊びと言えばハイキングや野球などのスポーツで、中でも登山と言うのは気力、体力を伴い、合わせて多少の資金力を必要とすることから、ある程度特殊な層と言えるものであったかもしれない。

 ところで私が始めて二千メートル級の山に登ったのは、昭和25年の中学1年ではなかったかだろうか。私の村の中学校には以前から「合同登山」と言って、全校生徒による故里の山八ヶ岳を登る行事があった。

 私が中学に上がる以前にも、この登山の厳しい事は聞かされていたが、正に死ぬ思いの登山であったのである。夕方から稲子口から登り始め、夜更けて本沢温泉に到着し、仮眠して翌早朝に硫黄岳を目指すわけである。

 硫黄岳山頂でご来光を迎え、体力のあるものは最高峰赤岳までを往復する事になっていたが、どれほどの人が挑戦したか記憶にない。ただ疲労と寒さに震えながら日の出を待っていた記憶だけが残っている。

 この後夏沢峠まで下り、北八ヶ岳の天狗岳を登って、稲子湯に下山すると言うコースだったと記憶しているが、もしかしたらこれを二つにわけで一年ごとに変えていたのかもしれない。

 この当時は今のような登山靴やトレッキングシューズなどというものはあるわけがなく、まともな運動靴もなかった時代である。最も良いとされた地下足袋も、子供の足に合う物がなく、草鞋履きだったような気がする。この場合も一足では当然間に合わないから二足三足を持参と言う事ではなかったろうか。

 それ以外では、食料は握り飯で、喉が渇いた時に有効だと言われ、胡瓜をたくさん持たされたが、雨具の用意として、兄の大きめの雨合羽を持参したため背負ったリックサックの重さに耐え切れず、それを着て、滝のような汗を流しながら登ったのである。

 稲子湯に到着する頃には、全員疲労困憊して、ちょっとの休憩でも立ったまま居眠りする者が続出し、登山口の稲子で解散した後は、一部落過ぎるごとに田圃の畦道に横たわるが早いか眠り込み、ようやくにして家にたどり着いたのである。

 ただ、この大パーテーを引率する先生も大変で、その後中止になったように記憶しているが、もしかしたら、この苦しみに耐え切れず、その後の合同登山には参加しなかったのかもしれない。

 そして東京に出てきて間もなく、また山に登りたいと言う気持ちがむっくりと起きてきたのである。当時は文太郎と同じで、仲間とのハイキングが盛んで、取分け同期生の仲間と近くの山に時々出かけていた。
 このときは同期の女性も含まれていて、いま考えると意中の女性の前で、良い恰好をしようとする若気の野心がみえみえだったのかもしれない。

 それから、一年ほどたったところで、同期生七人の中で、本格的な登山を始めたのが四人いた。もっとも先鋭的なのがNで、Nは何処かの山岳会に入って活動を始めたのである。続いてKがほぼ同じような活動を始めたのである。これに私とYが加わったが、Yはどちらかと言えばハイキングに重きを置いていたのかもしれない。

 ただ、K、Yそれに私は同じ独身寮の寮生であり、その後も長い付き合いがあったが、それなりにライバル意識があったような気がする。ただ当時の登山用具はかなり高価なもので、登山靴などは数か月分の給料に匹敵していたのかもしれない。

 これらを神田の好日山荘辺りでこつこつと買い集め、ようやく三千メートル級の山に登る事が出来る形になるのに一年を要したのである。
 当時買い集めたものに、登山靴(ナーゲルと言う鋲靴)、ザック、寝袋、飯盒、水筒などであった。

 この中で寝袋は当時の駐留軍の払い下げで、口の悪いのは「朝鮮線戦争の敗残兵の払い下げ」などと言っていたが、超特大以外は100パーセント羽毛の非常に温かなものであった。

 これで勇躍登山が出来ると、まず手始めに近くの丹沢山を目指したわけである。当時、川崎市の元住吉に住んでいたため、休日の早朝に起きて登山口のある小田急線大秦野に向かったのである。ところが駅を降りて歩き始めたが、登山口が見当たらない。山の方向を目指して進むうちに何処かの農家の庭先に入っていってしまう。

 結局、山の稜線に取り付いたのは昼頃ではなかったろうか。この上り口を探し出すまでに難儀すると言う事は、この後の山行きのたびについて回り、大失敗を演ずる事になる。
 今になって思えば、誰か土地の人に聞けば造作もなくすむ事であったが、田舎出の若造と言う引け目からか、たったそれだけの事でも出来なかったのである。

 その日、生れて初めての単独行はかなり遅くになって最高峰の蛭ガ岳(1673)を極め下山にかかったのであるが、途中から日が暮れて秦野の町が見える頃には真っ暗になり、心細さも手伝い、思いっきり大声で歌を唄いながら下ってきたのである。

 すると、途中に一人の男性が立ち止まっていて、私の顔を見るなり「大丈夫か、狐にでも化かされたんか」と言ったのである。多分気違いじみた大声であったために、もしかしたら気でも触れたのではないかと思ったのかもしれない。

 斯くして私の登山靴筆下ろしは文太郎の六甲全山縦走に比べ、散々な結果に終わったのである。(07.09仏法僧)