サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

208.「孤高の人」14

 高山植物にハクサンの冠が付いた植物がいくつかある。ハクサンイチゲ、ハクサンコザクラ、ハクサンフウロ等々である。これらの名前を聞いたとき、白山という山はどんな山だろうと子供の頃から興味を持っていた。
 平成7年北アルプス復帰最初の剣岳を登ったとき、頂上からはるか西の山並みの中に、僅かに雪をいただいた白山の姿を望見した時、いつかあの山に登ってみようと思い続けてきた。
 そして、平成11年、憧れの白山を目指したのである。ただ、この山へのアプローチはまことにし難く、何処から登るのか思案した。
 当初は私の登山動機である「遠くの山に登りたい」と言うことから、福井県大野市から三ノ峰に登り全山縦走を目指したのであるが、関西からだと適当な夜行便はなく、結局金沢からバスで入る他はなく、どのコースを見ても早朝から登り始めるというのは無理なのである。
 結局、前日白山温泉まで入り、翌朝そのまま白山を目指す豪華版にした。さすがに人気の山だけあって登山者は多く、別当出合の休憩所では立錐の余地なしと思われるほどの混雑だった。
 途中から一般道から分かれて南竜が馬場のキャンプ場を回り、弥陀ヶ原のお花畑を通って室堂小屋に着いた。宿泊の手続きをした後、小屋に荷物を置いて付近を散策した。付近にはまだ雪田が残っていたが、驚くほど花が濃いということではなかった。
 翌朝まだ暗いうちに登り始め、主峰の御前峰(2702)には日の出前に到着した。ここで御来光を待つのであるが、驚いたのは小屋の前に在る白山神社の宮司が毎朝下駄履きで登っていて、日の出とともに一同で万歳を三唱すると言うのである。
 すっかり日が昇ってから、今度の登山のメインである中宮温泉を目指して中宮道を下るのである。この中宮道は総延長が27キロほどあり、一日では無理とされており、途中で一泊することになるが、途中に二つある小屋はいずれも無人小屋である。
 頂上からの急坂を下りきると、そこに翠が池という池があり雪渓が残っていた。そこで持参の食料で朝食を作って食べ、小屋からいただいた弁当は昼食にまわした。
 出かける頃、頂上から下ってくる人影が一人見えたが、それ以外に人影は見えなかった。翠が池を過ぎた頃から急に高山植物が濃くなって、しばらく行くと、あたり一面黒百合の群落に覆われていが、ただ、残念なことに、時期は過ぎていて種子のホウだけが残っているだけだった。
 ここからはなだらかな起伏を下るだけだが途中で、翠が池でみた頂上から下ってくる人に追い抜かれたが、熊除けようにカウベルを鳴らしながらもすごい勢いで下っていった。
 昼食は途中の二つある無人小屋の一つ、ゴマ平小屋でとる事にし、小屋に入ると先ほど追い抜いていった人が食事をしていた。話を聞いてみると、金沢あたりの人で、この日の早朝から昇り始め、今日中に金沢まで帰ると言うのである。まさに、超人的な健脚であり、加藤文太郎を髣髴とさせるような人であった。
 残念なことにお名前を聞き漏らしたが、私が作ってやった味噌汁を美味しそうに飲み、昼食用に持ってきた折り詰め弁当のすしを一巻頂いたが、残念ながら少し悪くなっていたが貴重な食料なので有難くいただいた。
 昼食の後はここだけにある水場で、水を補給し再び下り始めた。この白山連峰と言うのはなぜか蛇の多いところで、いたるところで蛇の姿を見た。ただ、竜ヶ岳近くの道脇の岩場でサルの姿も見え、さすがに深山幽谷の趣がある。
 その日の宿泊場のシナノキ平小屋には2時ごろ着いたが、小屋には勿論誰もいなかった。小屋は比較的きれいで、中二階になっていたのでかなりの収容能力がある。
 暗くなる前に食事の準備をして、早めに食事も終わった。誰か来るかと期待したが、誰も来るものはない。寝袋にもぐりこんだが、暗闇の中に二階に上がる口がぽかりと黒く開いてなんとも薄気味が悪かった。
 テントにいるときはさほど感じなかったが、人が造った建物に誰もいないと言うのは奇妙に怖いものである。また、夜の森と言うのはさまざまな音がする。どこかでドシンと音がしたり、何かが通ったような音や、木の枝が擦れ合う音などさまざまである。
 翌日は、樹林帯の中の比較的急な坂道を中宮温泉に向けて下った。昨日の人は昨夜のうちに帰り着いただろうか。中宮温泉近くの川原で昼食を取り、中宮温泉には昼少し過ぎた頃に到着した。
 バス停で次のバスの時間を聞いたらかなり間がある。近くの共同浴場で一風呂浴びた頃にはその日に急いで帰る気がしなくなり、中宮温泉でもう一泊してゆくと言う超豪勢な山登りになった。
 そして、その翌年、平成12年今度は南アルプスを目指した。このことはこの雑言「30.南アルプス」に掲載している。
 そしてこれが私にとっての最後の登山になった。というのは翌年、再び南アルプその仙丈ケ岳から、間の岳から農鳥岳を目指す準備をしているさなか、脳梗塞で右半身麻痺となってしまったのである。
 このシリーズ「孤高の人」などと大それた名前をつけたが、孤高とは「ただひとり、他とかけ離れて高い境地にいること」と言うことだそうだが、私など勿論それほどの人ではないのは分かっている。
 戦前からの名クライマーであり、日本山岳界の重鎮であった藤木久三さんが戦前、文太郎の遭難当時の山の考え方について「あくまで個人の力によって終始する単独行が、いかに貴く、高いものであったにしても、より大きく、より険しい「山」の登攀を目ざすものにとっては、団結の力によらねばならぬとの結論に到着したもののように考えられる」と述べられている。
 また、一方で、村上春樹さんの「スプートニクの恋人」という本の中で、『ジャック・ケルアックという作家が、孤立した高い山のてっぺんにある山小屋で、ケルアックは山火事監視人として一人ぼっちで3ヶ月を過ごした。
 「人はその人生のうちで一度は荒野の中に入り、健康的で、幾分は退屈でさえある孤独を経験するべきだ。自分が全く己一人に依存している事を発見し、しかる後に自らの真実の、隠されていた力を知るのだ」
すみれ「そう言うのって素敵だと思わない?」
「問題は、誰しもいつかは山から下りてこなくちゃならないことだ」と僕は意見を述べた。
・・・・・・・・』
 文太郎がもし現在存命であったなら、この二つの文章をどのように解釈してくれただろうか。(06.03仏法僧)