サイバー老人ホーム

206.「孤高の人」12

 翌平成8年7月には再び室堂に立った。この年は一の越に出て、荷物を一の越において雄山を往復し、五色が原に向かったのである。
 私にとって、山登りの最高の醍醐味は稜線に立って延々と稜線に沿って続く登山道を眺めることである。振り返って、今までの苦難の道のりを眺めれば、それまでに一歩一歩刻んだ足跡が忘れられない思い出となって連なり、これから先を望むルートには、予期しない苦難の道のりが、不安と楽しみが入り混じって連なっている。
 前年、浄土山の山頂から眺めた五色が原から、さらに巨大な山容で迫る薬師岳へのルートは、抑えられない魅力になって迫ってきた。
 このときは1泊目を五色が原とし、最後ザラ峠からの登りでは、雄山への行き帰りの消耗を後悔するほどきつかった。五色が原のキャンプ場はまだ残雪があり、一面の水浸しだったが、近くの工事小屋のような建物の近くに格好な場所を見つけて幕営した。この時期、五色が原の高山植物は期待したほど濃くはなかったが、穏やかな至福の時間を過ごした。
 翌日は、楽しみしていた稜線歩きを楽しみ、スゴ乗越しには結構早い時間に付いたので、スゴ乗越小屋の裏手にあるキャンプ場では比較的良い場所を確保できた。
 このスゴ乗越しは戦国武将の佐々成正の立山越えはここを通ったと言われており、その昔、何の装備もない頃に、どのようにしてこの深い山を越えたのか、ここまで来るとさすがに、「思えば遠くに来たもんだ」と言う歌の文句を思い出す深山幽谷の風情があった。
 翌朝はいよいよ薬師岳である。昨日のコースに比べれば、さして難儀なコースではなかったが、間山(2585)の頂上を過ぎたとたん、目の前に広がった薬師岳の西側斜面の雄大さには思わず息を呑んだ。頂上から真一文字に駆け下り、さえ切るものは何もない。
 この薬師岳と言う山は北アルプスのどこからも見られるが、東西の斜面はまったく様相をことにしている。東斜面は女性的とも言える優美な姿をしているが、東側はかつての氷河の跡といわれる、大きな三つのカールがある。そしてこのカールを取り囲むようにして、長大な山頂が連なっていた。
 時間的には昼ごろ到着したので、昼食を取ってからも、かつてないほどゆったりした時間、この山頂に残り、眼前の水晶岳(黒岳)をはじめとする山々を飽きることなく眺めた。
 その日は、途中、愛知学院大生遭難碑のケルンの横を通って、太郎兵衛平との間の薬師峠で幕営し、翌朝余裕を持って下山した。
 この愛知大生遭難と言うのは、昭和38年1月、愛知大生13名が薬師岳登頂後、一つ手前の尾根を太郎兵衛平と勘違いして、豪雪の中を彷徨して、13名もの若い命を失ったと言う痛ましい遭難事故であった。
 確かに似てはいるが、注意すれば見分けが付かないと言うほどの地形ではない。ただ、山ではいったん思い込むと、その思い込みからはなかなか抜け出せない。かつて、奥秩父縦走のとき、金峰山と瑞垣山を勘違いしたときの苦い経験を思い出した。

 まして、一面雪の原では目標とするものもない。後一歩で太郎兵衛小屋に到着できる思いながら、必死に捜し求めた、若者たちの焦りと、絶望感は如何ばかりであったろうか。杖立にある遭難慰霊碑とあわせて、この前を通るときはいつも胸に迫るものがあった。
 この杖立ては北アルプス登山の主要な登山口で、これ以降3年続けて杖立てに立つことになる。
 平成9年7月には、杖立てに入り、前の年太郎兵衛平らから下った道を逆に登り、黒部五郎岳を目指したのである。
 愛知大生遭難慰霊碑をお参りして、いよいよ登りにかかり、樹林帯は快調に飛ばした。樹林帯を抜けると広大な草原の斜面を、自然石を敷き詰めた登山道に変わる。多くの登山者の踏み跡が掘れて、それを修復するためにやった工事だが、恐ろしく歩きにくい。
 昼前には太郎兵小屋に到着し、小休の後薬師峠に向かった。この頃から空模様がおかしくなり、幕営が終わった頃からは雨と強風が吹き始め、その夜は雨は差ほどではなかったが、風はますます強くなった。薬師岳の頂上から、魔物でも襲い掛かるような凄まじい音とともに駆け下りてきて、テントを根こそぎ持っていかれるかのように吹き付ける。
 まんじりともしない朝を迎え、テントを撤収すると、小雨の中を黒部五郎岳に向かった。視界がまったくないというほどではなかったが、北ノ俣岳(2661)迄の5時間はかなり厳しく、ゆっくり稜線歩きを楽しんでいる余裕はなかった。黒部五郎岳手前の中俣乗越辺りで、雨中の昼食を取った。
 昼食と言っても、すべて自炊だから、岩陰に身を寄せて、インスタントラーメンを作って食べた。そこからいよいよ黒部五郎岳の登りである。ジグザグの登りをただひたすらに登った。
 黒部五郎岳の頂上に到着したときはほぼ限界で、途中一緒になった御婦人連れのパーティにも置いてゆかれた。その晩、黒部五郎小屋のそばのキャンプ場に幕営する予定だったが、キャンプ場が水浸しで、やむなく小屋泊まりとした。

 ただ、食事は自炊することにしたが、先に到着した御婦人連れが、見るに見かねたのか「小屋にお願いしたら」と言ってくれえたが、予定の食料を消化しないと明日からの行動にも影響するので、そのまま自炊した。
 翌朝は昨日に増して激しい雨の中を出発した。視界のまったく利かない中で、三俣蓮華岳(2841)の頂上で、途中から一緒になった登山者と写真を撮りあいながら、双六岳に向かった。この辺りがアルプス山野逍遥の最も良い場所だったが、無慈悲な雨にたたられて、敗残兵のような姿で歩き続けた。
 ところが、双六岳(2860)の頂上に到達した頃から空は次第に明るくなり、双六小屋に向かう頃には晴れ間も見えてきたのである。ようやく日の光を見たときには同行者と手を取り合った喜んだ。
 双六キャンプ地は樅沢岳(2755)を真正面に据えた位置にあり、その夜は隣り合わせでテントを張った同行者と痛飲した。

 翌日は樅沢岳を往復し、新穂高温泉に下山し、新穂高温泉で一泊して帰ったが、黒部五郎岳の山小屋一泊と、新穂高温泉から高山までのバス料金が思った以上にかかり、高山でサラ金に飛び込み、ようやく家に帰り着いた。(08.02仏法僧)