サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

204.「孤高の人」10

 私が再び山に登りだしたのは、ある日突然に登りだしたわけではない。昭和60年に仕事の関係で、30年間住み慣れた関東から、関西に移って来たのがそもそもの始まりである。

 丁度東京を離れる前のある日、職場の上司の一人が「今更どうしようもないが、もう一度山登りがしたかった」としみじみと述懐した事があった。その人がどれほどの山登りをしたか不明だが、間もなくサラリーマン生活に終止符を打つ時になって、人生の中での大きな忘れ物に気付いたのかもしれない。

 同時にこの言葉は、私の中で眠っていた、何かが揺り起こされたような気がした。ただ、この当時の私は、見るも哀れに膨れ上がり、とても山登りを出来るような体ではなかった。

 広大な関東平野と違って関西は、ほんの少し歩けば丘陵地にぶつかり、3月になって、家族全員が移転し、5月に入って、愛犬「ペロ」が加わったのである。ペロについてはこの「雑言」の中でも何度か紹介しているが、血統書つきのれっきとした名犬(?)である。

 ただ、この犬何故かペットショップではなかなか買い手がつかず、値下がりしたのを見越して私が買ってきたのである。値下がりしたと言っても、我が家にとっては大枚ウン万円を払っているので、簡単に死なせるわけにも行かず、言われた通り、朝晩の散歩を欠かさず、その散歩の役目が私だったのである。

 結局、ペロの生存していた16年余り、一日も欠かさず、ペロの散歩は続けた。取分け土日や休日には、犬の散歩には不釣合いなほど遠出をしたり、また、関西ははじめてであり、付近の地理も全く不案内だったため、およそ歩ける範囲は歩き回ったのである。

 その結果、さしもの体重も徐々に減り始め、歩く事への楽しみが目覚めてきたのである。55歳を過ぎた頃、会社に山岳写真家の白川義員氏との関係で山岳写真を撮り歩いている人がおり、その人に「私でも六甲に登れるだろうか」と聞いた事があった。すると、彼は言下に「登れるよ!」と寧ろあきれ返ったように言い放ったのである。この言葉に刺激を受け、初めて、六甲山東尾根を登ったのである。

 六甲は、我が家の目の前に広がり、毎日目にしていたし、ペロとの散歩で、その登山口周辺を徘徊していた山である。

 春の日が穏やかな日を選んで、単独で登り始め、順調に頂上を極めたが、頂上付近では足の付け根の筋肉がつるアクシデントに見舞われたが、上々の気分で魚屋道(ととやみち)を 下り、有馬温泉に浸かって帰って来たのである。もっとも、足の付け根がつる癖はその後も続いたが、復帰第1回の登山は快適そのものであった。

 これに味を占め、関西一円の山と言うよりは、手当たり次第に登るようになり、取分け六甲と、阪急宝塚線に並行してある中山は四季を問わず、時間を問わず歩き回った。

 特に六甲の場合は、家から登山口まで近いと言うことから、大晦日の除夜の鐘を聞いて、それから出かけて頂上で初日の出を拝むのを何回か続けた。

 これらは殆ど日帰りコースであるが、関西の雄峰大峰山と大台ケ原は時間的に日帰りというのは無理で、それぞれの山小屋に1泊どまりで出かけたが、それぞれに思いで多い山行きだった。

 最初は修験道の修行の場として名高い山上ガ岳を目指し、洞川(どろがわ)から山小屋のある稲村が岳(1726)に登り、その日は稲村が岳に泊まり、翌朝は早立ちして、山上が岳を登り、ここから吉野までのいわゆる奥駆け道27キロを走破したのである。吉野には夕闇の迫ったころに到着したが、穏やかな春の陽気の中を心地よい歩行であった。

 大峰山系には、秋も深まったころ、最高峰の八経ヶ岳にも登った。八経ヶ岳(1914)に登るには、天川川合から入って、1日目一杯歩いて、八経ヶ岳の手前の彌山(みせん)小屋に泊まることになる。

 その日は若い小屋番はいたが、登山者は一人も居らず、だだっ広い山小屋の中で、一人さびしく食事をした。この八経ヶ岳は天然記念物の大山蓮華の自生地であるが、この時期にはもちろん花はおろか葉もなかった。ただ、最近はこれらも鹿の被害にあって、絶滅に瀕しているということで、それぞれの株が厳重に金網で保護されていた。

 鹿と言えば、彌山近くでは寂しげな泣き声が頻りと聞かれ、寂しさをいっそう募らせた。帰りには道端に鹿の角が落ちていて、今となっては貴重な思い出の品となっている。

 大台ケ原も修験道場であるが、ここに至るには大和上市から延々4時間バスに揺られてようやく到着するのだが、ついたところは海抜1500メートルを超えたもじどおり台地になっている。ここから最高峰の日出が岳(1695)まではほんの30分ほどである。

 朝1番電車に乗って、ちょうど昼ごろに到着した。ただ、これだけでは面白くもなんともない山だが、ここから三重県に注ぐ宮川の上流に作られた宮川ダムに向かって下る大杉谷コースがなんとも圧巻である。

 途中にある桃ノ木小屋までの5時間余りの急坂と、いたるところにある滝は、今まで見たこともない見事なものであった。これほどの滝が今までのマスコミにもあまり取り上げられなかったのは、この大杉谷下りが予想以上に厳しいためではあったのかも知れない。

 途中の桃ノ木小屋はさして大きな小屋ではないが、宮川の川岸に建つ小屋で、美味しい食事と、山小屋では珍しい風呂に浸かる事ができたことが忘れがたい思い出となった。

 そして、再び3千メートル級の山を目指すようになったのは、あれから30年の歳月を離れた平成7年である。

 その年の5月、勤めていた会社の35周年を記念して、懸賞論文の募集があり、これに応募したところ入選し、10万円の賞金を頂いた事がきっかけである。

 その賞金の全額を使って、山の道具をすべて購入したのである。30年前に比べ、すべての装備が驚くほど進歩していて、30年前のは「蟹族」といわれた横幅の広いザックは、スリムになり、当たり面のクッションは至れり尽くせりになっていた。テントなども軽量で強靭になり、しかも防水性に優れたものに変わっていた。

 そしてその年の夏7月、かつて同期生のYとKが得意げに話していた北アルプス剣岳を目指したのである。(06.01仏法僧)