サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

195.「孤高の人」1

 もう大分以前の事になるが、昨年の暮れ、正月中に読む本を探しに図書館に行った時の事である。暮から正月明けまで、図書館も休みとなり、三週間ばかり期間があったので既に何冊かを手にして更に書架を眺めているうちに、ふと目に止まった本があった。

 それは、私の故里の作家、新田次郎さんが書かれた「孤高の人」と言う本である。手にとって見ると、表紙の見返し一面に六甲山全山の見取図が載っていたのである。
 六甲と言うのは我が家の目の前に広がった山塊で、病気になる前は私にとって恰好のトレーニング場で、四季を問わず何回も登った山である。

 また、新田次郎さんが「孤高の人」を書かれたと言う事も以前から承知していたが、読んだ事もなかった。今では登る事も出来なくなった、この登りなれた六甲の思い出もあり、早速借りてくる事にした。

 ところが、この本、昭和四十四年ごろの刊行で、上下巻に分かれていて、その上、二段組でしかも活字が現在の文庫本よりはるかに小さく、かなりの読み応えがありそうである。
結局、今年の正月には読みきれず、他の本もあった関係で、五月までかかってしまった。

 この本、昭和初期に独特の登山活動で名を馳せた加藤文太郎さんと言う登山家の事を書いた実名小説であった。

 加藤文太郎さんは、明治38年に兵庫県浜坂町に生れ、小学校を卒業すると、神戸の造船所に製図修業生として入社して、後に仕事の傍ら、兵庫県立工業学校別科機械科を卒業、更に神戸工業高等専修学校電気科も卒業している、優秀な内燃機技術者でもあった。

 加藤文太郎さん(以下文太郎)が本格的に山登りを始めたのは、大正14年の文太郎二十歳のときである。

 このとき、六甲山を須磨から登り始め、東尾根を通って、宝塚に下りる、全工程56キロのいわゆる六甲全山縦走である。現在でも毎年行われ三千名以上の方が参加され、半数以上の方が完走されているようである。

 文太郎は、全行程を単独で走破して、しかも宝塚から住いの神戸まで歩いて帰ったと言うから、あわせて百キロという桁外れの健脚だったと言う事になる。

 私は、全山縦走はしたことはなかったが、私が登るのはもっぱら家の近くと言うことで、宝塚からの東尾根である。六甲山と言うのは最高峰が930メートルあまりで、それほど険しい山でもなく、恰好なハイキングコースと言える。
 ただ、それにしても全山縦走と言うのは並み大抵ではなく、早朝五時ごろ出発で、宝塚に到着するのは午後の八時ごろとなり、遅い人は十一時ごろになると聞いていた。

 東尾根と言うのはだらだらとした登りが15キロも続き、六甲山は標高はあまり高くはないが登り始めるところが海抜100メートル以内と言うことで、目一杯の登りになる。
 したがって、東尾根はもっぱら下りコースに使うと言う事を聞いていたが、以前、このコースを何所まで歩けるかトライした事があった。この時は途中道を間違えて、神戸電鉄有馬線の大池に出た事があったが、それでも全行程二十キロあまりであったろうか、かなり難渋した記憶がある。

 それが下山後、宝塚から神戸まで歩いて帰ったと言うのだから凄いを通り越している。当時はまだそれほど山道も、一般道路も整備されていない頃であり、更に、服装や登山道具なども調わない頃であり、一体どのようなコースを辿ったのだろうか。

 文太郎の登山経歴は大正14年から昭和11年1月の槍ヶ岳北鎌尾根での遭難までの僅か12年だけである。ただその経歴は、なんと言っても桁外れの単独行にあったと言える。

 前述の六甲全山縦走を皮切りに、翌大正14年8月の最初の本格登山は、蓮華温泉→白馬岳→大町→吉田口→富士山→御殿場の6日間の単独行をしている。
 この蓮華温泉と言うのは大糸線平岩駅(姫川温泉)から北アルプスの麓を目指して10キロあまり入った温泉で、新潟県側から後立山連峰を目指す登山口と言える。

 ここから白馬岳を目指した事になるが、下山が大町となっているので、詳しいことはわからないが、後立山連峰を白馬岳からすくなくとも鹿島槍から爺ガ岳までは縦走したことになる。
 そのあと富士山に登っているが、いまのようにスバルラインを使って5合目から歩き始めたわけではなく、麓の吉田口から登って、富士山の頂上を極め、御殿場の駅まで歩いたのだろう。

 このコースの一部でも歩いた人はその大変さは身にしみていると思われるが、これをわずか6日間で歩きとおしたと言うのだから気の遠くなるよな健脚である。

 そして翌15年7月には、燕岳→大天井岳→槍ガ岳→穂高連峰→上高地→乗鞍岳→御岳→木曽駒を11日間で走破している。更に同じ年の8月、戸台→仙丈岳→甲斐駒→台ケ原→八ガ岳→浅間山を僅か5日で単独走破している。

 当時の事だから、鉄道の駅から登山口まで、バスやタクシーなどもあるわけではなく、しかも山小屋や登山装備などもいまのように整っていたわけではない中での登山であり、正に想像を絶する登山であったろうと想像できる。

 この頃北アルプスなどに入る場合はガイドを雇わなければならず、登山と言うスポーツは特殊の階層にだけ許されていたスポーツであったはずである。高等小学校を卒業しただけの文太郎が経済的には決して裕福な状況ではなかったはずである。

 山に取り付かれたきっかけは社内に出来たハイキング部がきっかけであったらしい。その後山歩きに目覚め、日常生活の中でも、リックサックを背負って出勤し、その中に石ころを入れていたと言うことである。しかも手造りの簡易テントで、下宿先の庭で野営の訓練をすると言う徹底振りである。

 それならば、何がこれほどまでに文太郎を掻き立ていたのだろうか。性格はごく温和で、寡黙の人だったらしいが、人との付き合いの下手ないわゆる変わり者の部類であったのかもしれない。

 文太郎は誠実で寡黙な人だったから、こうした超人的な登山をしても、訊かれないかぎり、自らそれを吹聴したりはしなかったと言われている。元来、単独行をするのは変わり者と言われていたが、昭和11年1月、彼の数少ない彼の信奉者、宮村健(仮名)とパーティーを組み、厳冬期の北鎌尾根で、31歳の生涯を閉じたのである。(07.08仏法僧)