サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

188.帰巣本能

 世の中には奇妙な事もあるものである。現在の資本主義経済のおいては、個人であれ、企業であれ事業をしようとすれば、できるだけ多くの人に存在を知ってもらい、より繁盛すればよいと考えるのが普通である。

 ところが、最近の新聞広告欄を見て、看板のないのを売り物にしている店があるらしい。しかもこう言う店を特集した雑誌が出ているというから更に驚きである。見出しを見ると「“看板のない店”それは都会に潜む一つの謎だ」ということである。

 それはそうだ、この資本主義の世界で、名前を知られたくない商売といったら、盗品の故買屋か、覚醒剤など裏社会の商売しか考えられない。今時ヤクザ屋さんでも金ぴかの看板を掲げている。

 これを取り扱っているのが「男の隠れ家」という雑誌である。といっても読んだことは勿論、見たことも無いが、早速ネットで調べてみると3年程前の発刊された雑誌で、今までにもこの「看板のない店」を2回取り上げている。

 もっぱらネット上で表紙の写真を見ただけだが、その見出しが振るっている。
「隠れ屋流、男の作法」とか「本当は誰にも教えたくない、看板のない店」ときている。教えたくなければ教えなければ良いのだが、発刊以来3年間で3回取り上げているのはよほど教えたいのだろうと解釈している。

 この教えたくないとか、看板のない店を売り物にしているのは店主側の意思ではないと思うのであるが、男と言うのは何故かこう言うのにめっぽう弱いところがり、そのことが雑誌に時々取り上げられる由縁かもしれない。

 最近は大分変わってきたようであるが、京都辺りではよく「一見さんお断り」という看板を目にする。もともとは贔屓筋を客層とする飲食店で、一日に扱う客数や、料理の品数を限定した商売ということであろう。
 お断りする店などにわざわざ行ってみたいとも思わないが、根底にはその店の処理能力に制限があることにも拠るが、客側にしても、店側にしても、その程度の商いでお互いが事足りた優雅さがあるということだろう。何れにせよ、今時の流行り言葉で言えばセレブの世界と言うことかもしれない。

 これを今風に形を変えたものが、ひところ流行った会員制クラブなどということになり、もう少し大衆化したものがボトルキープの店などというもので、最近はこの世界とも縁が無くなった。更に遡れば、茶会席などがその源流で、夜話などはその極みかもしれない。

 それならば何故こうしたものが「男の隠れ家」になるかといえば、根底には男の独占欲というよりか、人知れずこっそりと楽しみたいという姑息な考えがあるのかもしれない。
 今時大都会では、隣に知り合いが座っても分からない時代であり、敢えて「男の隠れ家」を求める必要も無い。それほど人と顔を合わすのが嫌なら、いっそのこと、人里はなれた山奥にでも行くか、ホームレスにでもなって青テントの下に暮らせばよいということになるが、全く見られないというのも寂しいのだろう。

 要は情けない男のわがままというものであり、できるだけ客の少ない店で、自分を中心にしてもてなしてくれて、できればチョッピリきれいな女将でも居て呉れたら申し分がない、という程度のところかもしれない。

 ところで「男の隠れ家」は合っても「女の隠れ家」があるという話は聞いた事がない。聞いた事がないだけで、世の中にはあるのかもしれないが、大よそ女性が孤独を楽しむなんて構図も思い浮かばない。寧ろ、必要以上に賑々しくというのが女性の本性ではあるまいか。

 それならば、何故男は孤独を好むのかといえば、家庭で、職場で常に虐げられている反動かと思うのであるが、少し違うようである。およそこの手の男性はどちらかといえば、ハイレベルに属する男性が多いようで、すっからかんで何時も何かを求めているようなのにこんな男は居るまい。

 財をなし、名を遂げると、男というのは孤独を求めるようになるのだろうか。例の「男の隠れ家」の見出しを見ると「個室列車が北の都を目指して走り始める。寝静まった陸奥の街を抜け、海峡越えの身支度を整える。そうして辿りついたのは銀世界の大地で迎える夜明けだった」などと書かれていて、何となくロマンを掻き立てるところである。

 これ以外にも、「「DEN」とはつまり、書斎、そして趣味を楽しむ部屋のことである。広さや形に基準はない。屋根裏、ロフト、地下室、階段の踊り場、果てはトイレの中にまで「DEN」と認められる空間は存在する」となっていて、「男たちに必要なのは休息だ」といっているが、広さや形に基準がないというところから、近頃青テントの数が増えたということでもあるまい。

 今の時代、敢えてこうした場所を求めるほど男達は疲れているということなのだろうか。考えてみると、疲れていたわけではないが、私の時代でも孤独を求めていたような気がする。

 取分け山登りではもっぱら単独行で、三日間ほど人っ子一人会わなかったというような山旅が多かった。取分け人が嫌いであったということでも無いが、山登りというのは基本的にはパートナーが居ようが居まい、全て個人責任であり、気の合う合わないは別にして、相手が強くても弱くても厄介なものだと思っていた。

 この辺りが変わり者と言われればそれまでだが、徹底的な孤独に浸ると無性に人恋しくなるもので、登り終えたこの感覚が好きだった。
 ただ世間の騒音から逃れたいといっても、トンネルを抜けたら其処は雪国だったの様にまるで違った世界などありえない。

 子供には成長の過程で、赤ちゃん帰りという現象があるが、母親の乳房にむしゃぶりついた幼子のような甘えの時期がある。私は『男の隠れ家』への隠遁は、大人になった男の赤ちゃん帰りというより、「子宮帰り」ではないかと思っている。

 女性は自ら子宮を持っていて、この感覚は無いが、男の場合、この外界の空気に晒されず、ほんの刹那の逃避であっても母親の胎内に戻りたいという帰巣本能があるのではないかと勝手に思っている。

 人知れずこっそりと自分だけの時間をすごしたいという思いが、「男の隠れ家」と言う奇妙な世界を作り出しているのであれば、男って奴は、偉そうな事を言っても意外に単純で、寂しがり屋で、甘えん坊なしょうも無い生き物なのかもしれない。(05.04仏法僧)