サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

12.携帯電話

 最近の携帯電話の普及は目覚しいらしい。この携帯電話の普及が日本経済全体を引き上げているというのだから結構な話ではある。ただ、「らしい」と云うのは我が家には携帯電話が無いからである。もっとも本格老人一歩手前の夫婦二人に携帯電話は必要ではないが、それ以上に初期の段階で得意然として車内や街で見掛ける携帯電話を使っている人の姿にもう一つ好感が持てなかったからでもある。

 あの片側だけの会話はたとえそれが何の関係もない人々の集合の中でも不自然に響く。その内容が大方はたわいないもので、それに理由も無くにやにやしている表情が加わると不愉快を通り過ぎて不気味でもある。

 それにしても女学生の意味も無い駄弁りは別として、日本人は段取りが悪くなった。僅か30分か1時間の間の予定すらコントロールできずに常に電話を持ち歩かなければならないとは何とも情けない。出掛けにちょっと電話をするか予定をはっきりさせておけば3倍もする通話料を支払わなくても済むのではないかと人ごとながら気になる。

 便利さに慣れると人は段取りを考えなくなり、いわゆる横着になるようである。もっともこの便利さの追求というのは段取りを取り除くところに主眼が置かれているのだからそれはそれで仕方がないし、日本だけのことではない。ただ日本の場合、段取りの塊みたいな農業を始めとする一次産業まで外国に依存するようになってとりわけこの傾向は強い。

 最近、日本人の数学力の低下についてテレビで「学校で習った数学なんてまったく使ったことがない」と云っている女性がいたが、当然である。衣食住は勿論、医療、教育、さらには遊びの世界まですべて他人が作ったものの上に乗っかっているだけでは自然の摂理を解き明かす自然科学など出てくるわけがない。電卓は数学ではない。

 しかし一歩物造りの世界に入ればふんだんに使われており、日本人がもっとも得意な分野であったはずである。段取りを自ら行うことによって軌道の修正や後先の調整が出来るのだか、最近はこれらをすべて人任せだから旨く行かなければすぐリセットである。

 考えてみれば今の子供たちはかわいそうである。便利さを追求する余り、その代償として人間が活動する上で最も楽しく、また感性を磨くことが出来る段取りをつけるということを失ってしまったようである。もっともこの責任は文明の利器を追い続けた我々にも大いにある。それだけに若者と競合しないこの分野で我々シルバーエージの活躍する場がまだあるような気がするのだが・・・・。(00.3仏法僧)