サイバー老人ホーム

243.家財道具

 近頃、我が家でも人が主か、家具が主か分からないようになって来た。そこで数年前に使われないと思われるものをことごとく廃棄したところ、大分あらゆるものの見通しが良くなったような気がしている。

 江戸時代、貨幣の発達と共に、各種商売が発達し、江戸には各地から大勢の人が集まったため、幕府の思惑とは裏腹に瞬く間に百万都市江戸が出現した。

 人が集まれば、先ず住むところが必要であり、旗本・御家人などの武家地でさえも、九尺二間の裏長屋がいたるところに建てられた。

 この九尺二間と言うのは、間口九尺、奥行き二間の四畳半一間と言うことで、ここに、長屋の熊さん、はっつぁん、夫婦と子供まで住んでいたのである。

 この、裏長屋の店賃は、銀五匁と言うことだから、五百四十文、見習い職人の二日分の給金と言うことに成る。

 これで、ひとまず住むところは解決したが、次は、生活用具と言うことに成る。どのような家財があったかと言うと、先ず何が無くても飯を食わなければならないから、飯を炊く「ヘッツイ」と言う竈はどこにもあった。

 尤も、これは適当な石と、赤土をこねた粘土があれば、誰でも作れるようなもので、私の子供の頃でも、父親がお勝手の土間に作っていた。

 次ぎが鍋釜、鉄瓶と言うのが必需品で、これに水を入れる手桶があれば、お勝手仕事は一応出来ることに成る。

 これに炊き上がった飯や、味噌汁を載せるためのお膳と茶碗であるが、「サザエさん」に出てくるちゃぶ台と言うのは、大分後のことで、大方は、山田洋二監督の「たそがれ清兵衛」でも使っていた箱膳で、私の子供の頃でも終戦後まで使っていた。

 箱膳と言うのは、一尺四方ぐらいの箱の中に、自分の茶碗と小皿を入れて、食べるときは其れをテーブル代わりにし、食べ終わったら食後の湯茶でよくすすいで、飲み干した後は備え付けの布巾で拭いて指定の場所に重ねてしまうのである。

 したがって、夕飯の後は、銘々の箱膳をしまうと、後は布団を敷いて寝るだけと言う単純さである。それなら、布団はどこに置くかといえば、今風の押入れなどと言うものは勿論ない。部屋の隅に立て屏風で仕切った中にたたんでおくと言うことに成る。

 ただ、冬場の火鉢や、掃き掃除の箒、味噌をするすり鉢などが生活の程度に応じて増えていったと思われるが、この手軽さがある夜突然、夜具を担いで夜逃げなどと言うことが出来たのかもしれない。

 ところで、百姓の家と言うのはどのようなものであったかと言うと、さすがに、九尺二間の四畳半と言うわけには行かない。屋敷地と言うのは、身分によって差異があるが、広さは十分であった。

 ただ、間取りと言うことに成ると、大方を地面むき出しの土間であった。江戸時代初期に書かれたといわれている農業指導書「百姓伝記」によると、「土民(百姓)は大方土座(土間)なるべし、然れども当世家屋敷も分限により過分にして、板敷き、すがき(簀を張り渡す)多し、土座なるときは、五穀の殻、其の外を敷きて湿気を凌ぐ。板敷きは縁(へり)取り(茣蓙)、平らにして座る」と書かれている。 
 さすがに、私の子供の頃でも、ここまでではなかったが、どこの家の中に大きな土間があった。 
 
 我が故郷に、享保六年(1721)「与左衛門田畑家財御闕所並びに持馬諸道具書上帳」と言うのが残っている。闕所とは一種の差し押さえと言うことで、何らかの理由で、与左衛門が差し押さえになったと言うことであろう。

 この内、田畑三反四畝を除いて諸道具について、
 まず、「湯方 一枚、指物 一つ」と言うのがある。湯方は浴衣で、指物とは縫い物だったのだろう。

 続いて「盆 六枚、茶碗 二つ、黒椀 五つ、盆膳 二つ、包丁 一枚、茶巾 一つ、小桶 一つ、手桶 一つ、水篭(瓶)一つ、板折敷 五枚、盃 五枚、手洗い 一つ」と並び、これで一応の煮炊きまではできることになる。

 ところが次に、「かつき 一つ」と言うのがありこれが分からない。室町時代まで、主に女性の衣服で被(かづ)衣(ぎ)と言うのがあったが、失礼ながら百姓女が着るものではない。

 ただ、これだけでは、百姓はできない。当然のことながら「鎌 一挺、鋤 二挺、立ち臼 一つ、石臼 一つ、挽き臼 一つ」と農具が必要と成る。この中で、「挽き臼」とは、籾を玄米にするためのもので、竹で編んだ篭のようなものに粘土と木片を組み合わせたものである。

 ところで、与左衛門の家は、「建屋一間(ま)、長さ七間半 横四間、ササ板葺き」となっていて、三十坪、今風に言うなら百平米と言うことになる。

 この中に、「根こさ(寝ござ)三枚、畳遍りごり三枚、同遍りなし二枚」を敷いて起居していた事になる。

 その他に「古屏風 一つ、硯箱 一つ、十露盤 一つ、酒 三升」と言うのが有り、さすが酒好きの教育県信州の面目躍如と言うところか。

 ただ、家具等はこれだけであるが、与左衛門殿「馬 一匹」と「荷駄 一口」と言うのがある。「荷駄 一口」と言うのは分からないが、馬に荷物を積むための鞍だったのかもしれない。

 江戸幕府の刑法法典「御定書(おさだめがき)」よると、家屋敷家財共闕所になるのは、死罪の外、遠島、重追放までである。

 この与左衛門殿、生き馬と酒三升を残して闕所とは、いかなる理由であったか分からないが、よほどの不埒が有ったのだろう。ただ、闕所の場合でも、「妻子の諸道具構無し」となっていて、成るほど妻子にまつわるものは見当たらない。

 ただ、残されたものの中に、「脇差し一揃い 長さ弐尺二寸五分与左衛門分、脇差一揃い、長さ一尺四寸 同人分」と言うのがある。

 これも「御定書」によると、「自分と帯刀致し罷り在り候百姓町人、刀脇差共取上げ、軽追放」となっている。
 佐藤雅美さんによると、道中差し(長ドス)と言われる長さが短い刀は御構い無しと言う事だったが、長さ二尺五寸は立派な脇差である。もしかしたら、是が闕所の理由であったのかもしれない。

 この時の入札価格がいかほどであったか、分からないが、寛政十二年(1672)、信州田中組(現上田市)で、闕所となった百姓が残した家財の記録が残っているが、鍋釜や、桶などの数が聊か違うが、内容は殆ど同じようなものであり、この入札価格が一両三分二朱と永七百二十六文と言う記録がある。

 百姓の一年の生活費は、凡そ十一両程度といわれているが、家財の額から見て、いかさま簡素な生活だったと言うことである。

 今の生活から見ると、さぞかし見通しが良かったとおもうのだが、与左衛門殿、いささか見通しを誤ったと言うことだろうか。(08.07仏法僧)