サイバー老人ホーム

326.感動

 今度のロンドンオリンピックには、今迄になく感動させられることが多かった。それは単にメダルを取った人が多かったからではなく、総ての競技について、それぞれに感動させられたからである。そして、その余韻は今も続いている。

 先ず、競技は日本のお家芸と云われた柔道、そして体操から始まったが、出だしからつまずいて、始めはおやおやどうなる事かと思った。

 ところが、女子柔道52キロ級の松本選手が出るに及んで、がらりと様相が変わったのである。最初に、時間待ちをしている松本選手を見て、一瞬、ウッ、と思ったが、実力もさることながら、この松本選手のキャラクターは、オリンピックが終わってからも好影響を及ぼし、この鬱陶しい国内の雰囲気を一変させる清涼剤になった。

 ただ、オリンピック競技の柔道と、日本でのそれには明らかに違いがある。日本での柔道は子供の頃からの、云わば、学校教育の一環である。随分前の事になるが、日本柔道の斉藤仁コーチが、ソウルで行われた世界選手権で、組んだ途端に逆手を取られ、重傷を負い不戦敗になった事があった。

 今度のオリンピックでも、随所でもそうした技がみられ、日本選手は苦戦を強いられた。もともと、日本の柔道と云うのは、「柔よく剛を制す」と云われ、正々堂々と戦うことを旨としており、こうした世界の流れは、勝っても、負けても敢えて見習わなくてもよいのではなかろうか。

 今度のオリンピックでは、競泳の北島選手、ハンマー投げの室伏選手、レスリングの吉田・井調選手の様なオリンピックの国宝級の選手の活躍も特筆すべき事であろう。三回のオリンピックと云えば、それだけでも足掛け十数年の間、精進し続けてきたわけで、これを名人と云わずと何と云うかである。

 また、かつてのお家芸男子体操で、内村選手を除いては失敗も目立ったが、世界的にレベルの上がる中で、これからの可能性を感じさせる内容であった。

 それと、可憐な日本女性の活躍が目立った。勿論、前二女性に比較している訳ではない。女子レスリングの小原選手の場合は、前二選手の後塵を拝して、苦難の道を歩んでこられたようだが、優勝している時の号泣の姿を見て、その心境を察するに余りあるものがあった。

 卓球の愛ちゃんこと福原選手、石川選手、それに平野選手、この三選手が、決勝進出を果たしたのは申し分ない快挙である。

 中でも、平野選手は、全盛期の頃は、強烈な個性の持ち主の様に感じられ、愛ちゃんの対戦相手とした場合、どうしても愛ちゃんの敵役を演じてきた感があり、決勝進出が確定した時、顔をくちゃくちゃにして喜んでいる平野選手の姿を見ると思わず貰い泣きをした。

 何と云っても、最高に感動を与えられたのは、女子サッカーではなかろうか。女子サッカーがワールドカップで優勝した時も、勿論感動させられたが、果たしてこれって本物だろうかという懸念があった。ところが、今回の予選を通じて、なでしこジャパンの実力は紛れもない本物だということを常に見せつけられ、そして、決勝でアメリカと戦ったわけである。

 この両チームが、試合前に整列した時、どう見ても対等に戦い合うスポーツの相手には見えない。片や、見るからに逞しい荒馬のような女性達であり、一方、なでしこジャパンは健気な乙女である。この健気な乙女たちが90分間戦い続けるのを見て、これを感動と云わずになんと言うだろう。

 女子バレーボールも、国民を大いに感動させた競技の一つである。バレーボールも、過去に於いては日本のお家芸と云われた時代もあったが、その後衰勢に及んで、本大会に出場するのも難しくなった。

 今回も、予選からかなり苦戦していたが、決勝トーナメントでは、破竹の勢いで韓国を下し、竹島騒ぎで突っつきまわされたうっぷんを晴らしたような心境である。

 いかにも日本女性らしく、しっとりと、つつましやかに喜びを表現したのがアーチェリーの早川・蟹江・川中の三選手、それに男子の福川選手には夫々に好感が持てた。

 好感と言えば、重量挙げ女子の三宅選手、それに水落ち選手なども好感の持てた選手であった。三宅選手などは、戦後日本が初めて誘致した東京オリンピックの時のイの一番の金メダリストに輝いた三宅選手の縁者である。

 あのバーベルを差し挙げる時のにこりともせず、黙々と挑む姿には、かつての三宅選手を彷彿とさせるような神々しさがあった。それと、水落選手はメダルこそ逃したが、他の選手に比べ、見るからに女性らしい体型をしていながら、果敢にトライアルに挑んだ姿は、日本にも、まだこうした女性がいたのかと思いを新たにした。

 バトミントンの藤井・岩垣選手も好感の持てたペアーだった。選手歴を拝見すると、それほど目立った存在ではなかったようだが、マスコミ人気などの振り回される事無く、黙々と取り組んできたのだろう。価値ある勝利だった。

 並いる受賞者の中で、フェンシングと云うのは一際輝きを増す競技ではなかったろうか。勿論、どの競技もそれぞれに価値あるもので、どれが上か下かと云っている訳ではない。ただフェンシングと云うのは、もともと欧州で起きたもので、その起源は命の遣り取りする騎士道に通ずるものである。
日本でも、剣道と云うのがあるが、この最上位者を決める試合等は、単なる競技ではなく、人間の本質を糺すものだと云う様な事を聞いた事がある。それだけに、この一角に食い込んだ日本選手には深甚の拍手を送りたい。

 そう云う点ではボクシングの村田選手なども、単なる競技者ではなく、哲学的雰囲気と、言動を表す稀代の名選手であろう。

 そして、日本競泳陣の奮闘も特筆ものである。かつて、水泳も日本のお家芸と云われて久しいが、男女とも、それぞれの選手がたゆまぬ精進されてきた事がうかがわれ、大いに力付けられた。

 ただ、オリンピックの花と云われる陸上は、室伏選手以外にメダリストはなかった。その背景には、開発途上国の選手たちの基本的体力差に加え、競技方法にも科学的進歩が加算されたのではないか思っている。その中で、男子400メートルリレーで、決勝まで進み、4位占め、男子マラソンに、6位に入賞した中本選手なども併せて、特筆すべきではなかったろうか。

 こうして、様々が競技で、それぞれに感動を受けたのは、日本選手の活躍があった事は当然だが、同時に、イギリス人の国民性が大いに影響したのではなかろうか。主催国だから、ある程度のナショナリズムの発揮はやむを得ない。ただ、スポーツの醍醐味を失う程のナショナリズムと云うのは総てを白けさせるのではないだろうか。その点、イギリスと云う国の、成熟した国民性をうかがわせる心地よい大会で有った。

 尤も、今更、私の様なド素人の、暇老人が、分不相応の御託を並べても仕方ないが、先日の銀座パレードの様に、今迄になかった50万人もの人たちが、集まったと云う事は、鬱陶しい事件が続いた中で、いかに人々が、日本選手の活躍を喜んでいたかの表れだろう。

 翻って、わが身を思う時、私の一生の中で、喩え幾ばくでもいいから、他人を感動させた事があったか考えてみたが、有るわけもない。人生の終末を迎え、昨年12月、73歳でエベレストを登頂した渡辺玉枝さんにあやかりようもないが、せめて、老け込む前に何かもう少し社会の中で存在感を表せないものかと日々考えて、惰眠をむさぼっている。
そして、本大会にも増して感動を貰えるパラリンピックが始まった。(12.09.01仏法僧)