サイバー老人ホーム

270.髪結(ヘアースタイル)4

 それでは男の髪型というのはどうであったかというと、「七、八歳に至れば、奴、盆の窪等の形いよいよ大きくまた長くし、惣じてこれを取り上げ、男子は男髷」となり、「ようやく髪長じて四方に散乱す故に、百会(ひゃくえ)(脳天)と前後左右五箇所に結ぶなり。
 斯くの如きを江戸にて異名を角大師という」即ち、それぞれに伸びた髪を結び合わすので、ちょうど角を生やしたようになると云うことである。

 そして、「今世、三都とも士民の息子は必ず前髪に?(もとゆい)を結びす。江戸丁児(でっち)および小戸の息は、十一、二歳の間、前髪と髷先とを重ね、ここにも?結びす。

 故に、髻と前髪と中と三ヶ所に元結をもちゆ。三都とも息男・丁稚ともに元服一・二年前に額際を僅かに剃る。俗に、すみを入るという。この風を角(すみ)前(まえ)髪といい、半元服なり」

 何年か前に、高校野球全国大会で、出場選手の中に額の生え際に剃りを入れた事が問題になった事があった。当時の高校生達はどの様な思いで剃りを入れたか分からないが、まさに「半元服」である。

 そして十五才に成ると男子は元服であり、元服には前髪を剃り、それまで着物を結わえる紐を通していた八つ口という袖腋(わき)の穴を塞ぎ、腰や肩の縫い上げのない大人の衣服に変わる。そして、元服の男子に烏帽子を被せ、烏帽子親に前髪を剃り落としてもらって大人の仲間入りになる。とここまでは、いわゆる身分高き子弟という事になる。

 そして結い上げたものがちょん髷と言う事になるが、これが一様ではなく、先ず基本的には身分に依って違いがあった。

 即ち、武士の髪形は「髪多く、髷太く前後低く半ばを高くす。小?(こびん)(横額、京阪出額)を稀には剃らざる人あり」と言う事である。この中で、「小?(こびん)」とは、籾上げといわれる耳の前に生え下がった部分のさらに顔面に近い部分である。この部分を剃っていたとは知らなかった。

 続いて町人の髪形は、「髪少なく髷げ前後中ともに真っ直ぐ。小額は必ず剃る。」更に、職人の髪は、「町人と同じにて髪末を分かつ。名づけて刷毛を散らすという。」

 この刷毛に散らすというのは、現在の大相撲の力士が、髷の先をイチョウの葉の形に大きく広げた結い方を大銀杏というが、これとほぼ同じような形で、職人の粋な姿を表現していたのだろう。

 男の髷も、女に負けず劣らずで、取り分け「本田髷」というのが流行したそうである。この本田髷には、安政二年(1855)「当世風俗通」に本田髪八体と言われるものがあり、本田、円髷、兄様、疫病、五分下げ、浪速(おおさか)、金魚、団七本田である。

 この髷の特徴は、「耳の上ぎりぎりから側頭部にかけてまで極端に広く月代(さかやき)を取り、鬢の毛を簾のように纏め上げる。従って鼠の尻尾のように細く作りなした髷は元結で高く結い上げて、急角度で頭頂部にたらす」というもので、凡そ現在の映画や芝居で見る時代劇とは趣が大分違いがあるようである。

 広い月代と頭と髷先、髷の根元を線で結んだ間の部分に空間ができるのが特徴で、優美で柔和な印象で最初吉原に出入りする客の間で大人気を博した髷で、本多髷でなければ吉原遊郭では相手にされないとまで言われ、大店の若旦那といえば本多髷を結うものというようなステレオタイプ(門切り形)まで存在したと言う事である。

 ちなみに、「疫病髷」とは、安永二年の印本「当世風俗通」によると、「下の侠客風の(息子)は、髪はいずれも本田なれども、是なかんずく厄病本田よし。月代を小判形に残し、中剃りを耳の辺りまで剃り、残るところ髪わずかに鼠の尻尾ほどあり」となっている。
 
 挿絵を見ると、後頭部の髱(たぼ)の部分が他より大きく膨らませた現在言われるところの町人髷である。これがなぜ「疫病本田」と呼ばれたのか分からないが、多分、芝居などで病弱なものをあらわす髪形で、一筋の髪を鬢横に垂らすスタイルを疫病神と呼んだ事から来ているのではなかろうか。

 「守貞満稿」に書かれている絵図を見ると、当時の髷は全般に頭の脳天部分がやけに広く、髷が鼠の尻尾(しっぽ)のように貧弱である。これは、一つには、洗髪の都合があったのではなかろうか。「いい湯だな!」に書いたように、江戸の市民も武家も、銭湯が大好きであった。しかし、現在のように、毎日風呂に入るなどと言う事は夢のまた夢で、多くは行水で済ませていたことであろう。

 それを示すかのように、前出の紀州藩勤番武士の日記には、湯に出かけるのは膳奉行の叔父様だけで、多くは「腰湯」と書かれている。恐れ多くも、天下の御三家紀州徳川家の勤番武士でもこの程度であって、まして貧困に喘ぐ地方の勤番武士ならなおさらであろう。

 更に、この髪結いを、同じ勤番武士同士でお互いに三日に明けず結いあっているのである。この手数と、衛生的見地から、月代を出来るだけ広く剃ると言う事は、必要不可欠ではなかったろうか。

 したがって、武家で若党や、中間を雇う場合、通常では一年三両だったが、結髪・月代剃りをやれる者は三両一分と云う事で優遇していたのである。

 今の時代劇に、月代を伸ばした高橋英樹さん扮する「桃太郎侍」などがあるが、当時の衛生状態から考えると、格好の良さはさることながら、思っただけでも頭の痒さは想像に絶するものであったと思える。

 とは言え、総てがあのちょん髷であったわけではない。髪全体を延ばした総髪というのがあった。多くは医師や山伏の髪型であり、「総髪のもの老人などには特に多し」となっていて、自らの体験からして年を取って髪の毛が少なくなるに従って、月代を剃る事もなかったからであろう。

 そして、今の世の中でも若者の中に流行している散(ざん)切(ぎ)りである。「散切りは総髪なれど大略髪長からず、髻(もとどり)辺りより切りて散らしたるを云う。今世、江戸牢屋などに役する非人は髷する事あたわず」、即ち、今の若者達の髪型は牢屋に入れられた囚人の髪型と言う事になる。

 更に驚いた事には「縮れ髪」というのがある。「生質縮れ髪なるは昔日とても稀なる故に、竹を焙りて髪に当てつれば自ずから縮むなり」

 戦後、女性の髪形としてパーマというのが全盛を極め、やがて男性の髪型としてもパンチパーマというのが流行った事があった。当時は大きな釜のようなものをかぶっていたが、今ではと小屋にも縁のなくなった私などが知る由もない。

 斯く言う私なども、一時期パンチパーマにあこがれた事があった。一大決心をして理髪店に臨み、「どんな形にしましょうか」といわれた時、口の中でムニュムニュといったのが聞き取れなかったのだろう。床屋はいつもの形に刈り上げ、それを訂正する勇気もなく、以来、日々薄くなる髪を眺めては当時の事を思い出しながら嘆息しているのである。

 それよりも百年以上も前に、「縮れ髪」にするための火の出るような努力をした人々が居たというわけで、ファッションに対する人間の願望は火をも厭わない強烈なものであったと言う事である。

 いつの時代もファッションについては、法を犯してもやってみたいと思うのも世の常、戦時中、軍隊に入隊する場合、総て短髪にして入営したが、あれは軍律でそのようになっていたのだろうか。

 それにしても近頃の高校生の髪型を見るに付け、中味の貧弱化と相比例しているように思われ、これを防ぐには先ず朝命を持って「身奇麗」にする旨のお触れでも出さなければ改まらないのではなかろうかとつくずく思うのである(09.09仏法僧)

守貞謾稿「近世風俗志」:喜田川守貞著・宇佐美英機校訂・岩波文庫