サイバー老人ホーム

269.髪結(ヘアースタイル)

 斯くして丸髷に鉄漿(おはぐろ)をつけ、眉を剃った女性が一人前の女性と認められたと言う事である。

 ところが、「江戸吉原の遊女はこれと同じけれど、坊間(市中)は歯を染むる者は必ず眉を剃り、髷も更むる。あるいは丸髷にて歯を染めて眉を未だ剃らざる者も稀にはあり。これを半元服と言う。武家の新婦は専らこの半元服也」

 江戸時代、婦女のファッションは、江戸吉原の遊女の風姿が最先端を切っていたが、一般市中の婦女とは僅かな所で差をつけていたのだろう。その髪型によって、夫々の身分や職業まで表していた事になる。

 即ち、「江戸も万石以上大名の女房諸婢は、禄と格によりて小異あるのみ。万石以下俗に旗本と云える武家も髷は上輩片外し、下輩は島田崩しなれども、??(びんたぼ)は市間の婦女と相似て葵?(びん)のごとく薄平にあらずして、古の??(おうびん)の類か。

 御殿女中は他出は勿論、勤仕の時も素顔を禁とす。また紅白紛ともに市中女の粧より濃くする。また首筋の白粉ぬること、一本足と号して際立てて塗る」となっている。

 現在も、京都の舞妓は首筋の白粉を「三本足」と言って三本の筋に塗って入るが、江戸時代からの仕来たりに従っているのであろう。

 この中で、「御殿と言うは柳営(幕府の所在地)を指すなれど、今俗は大名などの女房達を惣名して御殿女中或いは御主殿風などと言うなり。御主殿と言うは、幕府の姫君の大名に嫁したまえるを言う。けだし、これに二品あり。

 上を御主殿、次を御住居と言う。また今俗は自他の妻を女房といい、堂上女房を御所女中、武家女房を御殿女中と言い習わせり」ということで、かの大奥の女性たちは厳しい規制の中で生活していた事になる。

 ところで、当時の女性は、婚前は島田髷、結婚して丸髷に統一されていたかというととんでもない、千変万化を競っていたのである。

 そもそも女性の髪形があのように嵩高(かさたか)に盛り上がったのは、「明暦・万治中、江戸吉原の名妓勝山なるもの始めてこれ結う。後頭部で束ねた髪を先を細くして輪のようにたわめて前に返し、先端を笄(こうがい)でとめたもの。吉原の遊女、勝山が結いはじめた」ということである。

 この説明ではトンと意味も分からないが、遊女の勝山が結い始めたのが最初であることから勝山髷と呼ばれたが、元禄ごろには一般の女性にも広まり上品な印象であったころから武家の若い奥方などに結われるようになった。

 のちに勝山髷が変形したものは「丸髷」と呼ばれ、江戸中期頃には遊女、後期以降は既婚の女性の髪形となったというれっきとした謂れがあるのである。

 ただ、この髪形が一人で結えたかと云えばかなり難しかったのではあるまいか。ここから自ずと女髪結が生まれ、ともに技術を競い、やがては弁慶の七つ道具のようなヘアースタイルが出現したのだろう。

 ところで、現在も婚礼に結う高島田とは、「処女の髪形、?(びん)耳に離れて高し、当時の笄、あるいは直あるいは上に反る。?には?張を用い、髱を高くす」ということで、一般的な島田髷より大きく張り出したと言う事だろうか。

 そして、天明以来、既婚女性の髪形は丸髷を正風として今に至るが、以後も様々に変化し、「安政に至り、丸髷扁平に髻(もとどり)低く髷背下がれり。髱、嘉永の風より小さし。この形、抽(ぬき)んでて当世を好む風なり」となっている。

 その外にも、かたはずし鬘、吹輪(吹き髷)、島田崩し髷、御主殿島田(御殿女中の島田髷)、そして行き着くところは後家島田である。「後家と喪中の婦女は、笄および笄に代わる簪を用いず、櫛簪を用ゆ。けだし簪も銀釵(ぎんかんざし)の髪掻きのみか」とひっそりと女の終末を迎えるのである。

 ところで、「近世、江戸の婦女は、毎月一、二度髪を洗いてフケ(垢)を去り、臭気を除く。夏月には特にしばしば沐してこれを除く。けだし近年匂い油を用いる事を好まず。またさらに髪に香をたき染むる事、久しくして廃れてこれを聞かざるなり。

 江戸も御殿女中は髪を洗う事稀なり。京阪の婦女もこれを洗うものは甚だ稀。けだし、近世江戸を学びて往々髪を洗うなり」と記されている。

 あの弁慶の七つ道具みたいな絢爛豪華な櫛笄簪などを頭に載せて、しかも小山のように盛り上げた髪を毎月一、二度洗いフケを去りと言う事はまさに地獄の責め苦ではなかったろうか。

 当時は、シャンプーやリンスなどがあるわけでもなく、ましてや石鹸すらなく、洗剤といえば僅かに米糠程度である。翻ってみると、今のように洗剤や整髪料が抱負に出現したのは昭和四十年代に入ってからではなかろうか。

 それまでは化粧石鹸でも上等で、私が子供の頃は洗濯も洗顔も総て同じ石鹸だったように記憶している。ただ、私の母親に時代にザラザラした髪洗い粉というのを使っていたように記憶しているが、どのようなものだったか分からない。

 ただ、世界に類例を見ないあの豪華な髪型が、自毛だけで成しえたわけではない。それを補う様々な道具が合ったわけである。

 まず、「髷入れ」というものがあり、「紺の厚紙と附木とをもってこれを製す」とある。この附木とは薄い木片のことで、戦後間もなく物資が不足していた頃、今では考えられないマッチが不足しており、それを補うために残り火に端の硫黄などを塗った附木に火を付けて火を起していた。

 続いて髱(たぼ)差し、「線鉄に紙を巻き黒漆にし、その上に黒木綿をもって縫い付ける。綿を肉とす」ということで、日本髪のふくよかな後ろ髪はこうして支えられていたわけである。

 また、「島田髷形は、紙張の島田髷入れるなり。表を藍紙にてはる」というわけで、美しく見せるためには目に見えない苦労があったのである。こうした細工が出来たのは、しかるべく補助者がおった場合のみ可能であり、幕末にかけてそのための女髪結いが増加したと言う事である。

 天保時代、諸物価の高騰と、幕府財政の窮乏により、時の老中水野忠邦が、南町奉行鳥居耀三とともに推し進めた天保改革のことはよく知られている。

 ただこの時の改革があまりに過酷だったことから、江戸市民の憎しみを一身に集め、失脚しているが、この時の改革の中に、女髪結も奢侈であると云うことで、取り締まりの対象になった。

 この時北町奉行は、ごぞんじ遠山の金さんでお馴染みの、藤山左衛門尉景元である。
この藤山の金さんが、天保十二年(1841)に、諸商人どもを北町奉行所に呼び出して訓示をしており、その中に女髪結について次のように述べている。

 「髪結所橋々辻々にこれ有り、一人前に付き三十二文も髪結賃取り候処、二十文に直(値)下げに相成り候、女髪結は厳禁御法度仰せ出られ候て、其の後内々にて結わせ候者もこれ有り、見つけ次第結わせ候者、結い候者両人とも坊主仰せ付けられ候。此の節所々にて女の坊主出来候。」当時の町風俗を髣髴とする記録である。しかし、なんとなく最近の郵政改革と相通じるところもあるような気がしないでもない。(09.09仏法僧)