サイバー老人ホーム

267.髪結(ヘアースタイル)1

 戦後、アメリカ式民主主義が導入され、あらゆる面に先駆けて取り入れられたのが、男女のヘアースタイルの自由化ではないのではなかろうか。

 戦前は、子供は勿論、大人になっても大方は男は坊主刈り、女は若い頃は三つ網のお下げ髪、大人になると引っ詰め髪という鬢(びん)にふくらみをもたせず、後ろに引っ張って無造作にたばねる結い方であった。

 勿論、一部には、ハイカラなヘアースタイルをしていたものもあっただろうが、忽ちの内に非国民などと後ろ指を指された事だろう。

 昔から、「身奇麗」という言葉があり、私なども子供の頃から母親から何度となく、「もっと身奇麗にして!」などとよく叱られたものである。

 この「身奇麗」とは、身の回りがさっぱりしているさまと言う事だが、それを最も端的に示したものが、頭髪の始末であったと思っている。

 戦後のアメリカ式民主主義に先立ち、いち早く取り入れられたのが、男の長髪、女のパーマではなかったろうか。もっとも、男の長髪も、この頃は「はちわけ」と言っていたが、この「はち」が数字の八か、向こう鉢巻の鉢であったか定かでない。

 この「はちわけ」が、その後、七三に分けて、やがてリーゼントとか、パンチパーマとか様々に変化し、今風の「茶髪」「散切り頭」に変化していったと勝手に思っている。

 ただ、高校生が長髪になったのは昭和の二十年代の後半ではなかったろうか。私の高校はその頃でも長髪は禁止されており、「長髪と単発の基準は」などと屁理屈をこね、先生を困らせた記憶がある。

 男性のヘアースタイルが大きく変化したのはビートルズの出現だったと記憶している。あの女性並みの長髪を見たときは、彼らの音楽以上の驚きであった。あれ以降、男も女も何でもありになり、とりわけ茶髪の出現はその極致に達した観がある。

 ところで、江戸時代のヘアースタイルと言うと、男はちょん髷(まげ)、女は日本髪と相場はきまっているが、なぜあのような世界に例を見ない不可思議なヘアースタイルが出現したのであろうか。

 これも、お馴染み「守貞満稿」によると、「天武天皇白鳳十一年(682)4月、詔して、今より以後(のち)、男女悉くに髪結(あげ)げよ」と命じたなっている。それまでは自然の成り行きに任せた今の若者のような風姿が、余りに見苦しいため天武天皇が自ら命じたと言う事かもしれない。

 そして「皇国二百年来、風姿殊に沿革して男子は月代を剃り、髭すらそり除きたる。一地球の中にかかる風俗に似たる国もあるべからず。

 これに因りてつらつら想像するに、上下(かみしも)という礼服、額剃りたる月代と、女子の幅八、九寸に及べる広帯、この三条は皆近世の風姿にて、立派なる風姿と思えども、異邦の人よりこれを見れば、極めて異形殊躰の国と思わんこと必せり」と、守貞先生、かなり冷静に日本の風姿を観察されている。

 この中で、「月代」とは、時代劇の中で、男が脳天の髪を剃り落とした青々とした部分の事である。

 これもお馴染み、「守貞満稿」によると、「月代を剃る事は鎌倉北条執権の頃に始まる。その昔は本朝の尊卑皆惣髪にして鉄漿(かね)を付けたり。「山海経」に曰く、東海に黒歯国あり。その俗、婦人は歯悉く黒く染む。これ日本の事なり。貴賎一統にして公家と地下(じげ)(庶民)との差別たたざれば、男の歯を染むる事を禁ぜられ、月代を剃る事となれり。

 月代の事、諸説多しと言えども、所詮は額髪をあるいは抜き去り、あるいは剃りたるもあるなり。烏帽子をつけて額に髪の毛の出るを忌みてこれを行う」というれっきとした故事来歴があるのである。

 しかも始めの頃は、剃刀で剃り落とすのではなく、抜き去ったというから並々ならぬ努力が伺える。

 これに付いて、かの有名な儒学者「荻生徂徠曰く、男の月代・髭そる事は、信長の髪抜きは痛み煩わしきにより僧家の剃刀を用いしが始めなり」ということで、いたく尤もな話である。

 成る程、そういわれて見るとNHKの大河ドラマ「天と地」でも、惣髪といわれる髪形で、月代を剃ったちょん髷ではない。なぜ月代を剃る世になったのかつらつら考えるに、あの長髪にしたまま兜かぶって戦場を駆け回っていたのでは、痒くて戦どころではなかったのではないかと勝手に思っている。

 ところで、「守貞満稿」によると、「それ男女の風姿たる風流美麗は、古今人の欲する所なり。しかも古人は善美にして流行に合い、意匠の精(くわ)しくして野卑に有らざる、即ちこれを風流と言い、また風雅とも言う。

 俗間に流行に走る者を京阪に粋と言う。江戸にてこれを意気と言い、その人を通人と言う。また今世、江戸婦人の卑なれども野ならざるを婀娜(あだ)といい、これに反すを不意気あるいは野暮と言う」ということで、ヘアースタイルについては男女とも並々ならない意を用いており、「身奇麗」に装っていたのである。

 話は横道にそれるが、私の尊敬する人で、昭和三十年代に国鉄総裁をされた石田礼助氏が、「われ粗にして野なれど卑にあらず」といわれたが、「守貞満稿」に書かれている事を捩ったのかも知れない。

 江戸時代、特筆すべきは何と言っても女性のヘアースタイルだったろう。
「元禄中、髪名には吾妻、引き出し、とんぼわけ、小島田、釣髪、二重曲(わ)げ、茶せん髷、なげ島田、兵庫曲げ、とり上げ髪、下げ髪、引こき髪、後家髷、丸髷、とんぼ髷は舞妓これを結ふ。なげ嶋田は遊女の髪、下げ髪は婚の日新婦の髪とし当時式正のみこれを結う。引こき髪は無?(びん)也」と多彩で、この形がどのようであったか分からない。

 更に「まづ鬢付けの油、銀だし、長かもじ、小枕、平元結、忍?(にんかつ)、笄(こうがい)、簪、髱出(つとだ)し、差櫛、前髪立ち、紅粉、白粉、花の露、黛、きはずみ、おもり頭巾、留針、加賀笠戴き、同じくくけ紐、あらましさえこの通りぞかし」と剣蘭豪華である。

 この中で最も重要なのは笄である。この笄とは、髪を整えるための道具で、後には髪飾りとしても重要な位置を締めていたと言う代物で、「長(た)けおおむね八寸、あるいは八寸五分(約25センチ)」、材質はここにも書かれているように鼈甲・象牙さらには玳瑁(たいまい)などが使われていたと言う事である。

 私の母の道具箱にも入っていたのを見た記憶があるが、当然の事ながら鼈甲などという高価なものではなかったろう。

 もう一つ笄と並んで重要なものが櫛である。この櫛というもの可なり古くからあり、「守貞満稿」によると「「延喜式」に、およそ命婦三位以上櫛流布す」と書かれている。

 この延喜式とは、延喜五年(905)後醍醐天皇の命により編纂を始め、延長五年(927)に完成し、のちの律令政治の基本法になったという代物である。当時は柘植の櫛が基本であるが、その後、鼈甲や、蒔絵の豪華なものがあり、当時の女性にとっては最も好まれたものであったらしい。

 さらに、簪(かんざし)という頭飾りがあり、遊女などは六本もの簪を刺していたようである。この簪は当然髪飾りであり、同時に髪を掻く重要な道具であったらしい。この櫛、・笄、簪等でで着飾ったヘアースタイルを評して、「守貞満稿」は次のように書かれている。(09.07仏法僧)