サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

24.神の国

 森総理大臣の「天皇を中心とした神の国」発言で国会がもめている。立法府の最高権威者が自ら憲法を無視するような発言はその本意が何であっても批判されても仕方がない。ジャーナリストの桜井よしこさんの言われる「政治とは信念であり、それを表現する最も適切な言葉を選ぶ必要がある」と云うことだろう。

 ただ、ここで政治問題について物申すつもりはない。この発言の「天皇云々」は別にして、「神の国」日本と言う考えには賛成である。だからと言って特定の宗派や、信教の自由、基本的人権をどうこう言うつもりはないが、戦後の新憲法で信教の自由が保障されるとともに、日本人は信仰心を失ってしまったような気がする。

 更に基本的人権を履き違えて法律の許されるところぎりぎりまで人権は保障されていると勘違いし、権利のみ主張する国民になってしまった。 そもそも法律とは、その国の国民が守らなければならない最低限の義務であり、これを犯した場合は罰せられると言うもので、法律を犯していなければそれで良いと言うものではない。

 この法律の外側に道徳と言う緩衝帯があり、この緩衝帯が厚ければ厚いほど住み心地の良い世の中になるはずである。
 もともと日本は農業国であり、自然の恵みに依存してきた国民である。その結果、八百万の神々に囲まれて我々は生きてきたのである。それは具体的には太陽であり、水であり、山であり、火であり、我々の周りにはいたるところに神々がいた。いわゆる森羅万象自然に対する強い畏敬の念を持っていたと思う。

 よく聞く話であるが、欧米人はキリスト教に根ざした道徳観を小さいときから教えられ、それが成長してからの人格の形成の基本になっていると言われている。 信仰の自由とは国家権力等で特定宗教に改宗されることを規制していることである。勿論、いかなる宗教も信仰しないことも一つの自由であるかもしれないが、人が自らの心の中だけで、道徳観や生き方を律することはなかなか困難である。

 信仰の対象が神であれ、仏であれ、気の遠くなるほど長い時間の中で醸成された道徳観は、何らかの宗教に頼らざるを得ないと考えている。 もともと日本人の信仰心と云うのはそれほど強いものではなかったかもしれない。
 勿論、抑圧された信仰心に対する激しい反発の歴史はあるが、一般大衆のそれは、どちらかと言えばお日様に向かって拍手(かいわで)を打つか、「鰯の頭」程度であったような気がする。

 それでも自然に対する畏敬と、人前で恥をかかきたくない、いわゆる「恥の文化」はあったと思う。 然らば、おまえはどうなんだと云われれば、もっともらしいハンドルネームなど付けているが、私の宗教観などかなりいいかげんなものかもしれない。
 これは今でも時々顔を出すのであるが、少なくとも30代の半ばまでは、世の中は自分を中心に廻っているような思い上がった考えをもっており、神も仏もない不埒な人間であったのである。
 ところが歳を重ねるに従い、挫折や、失敗、行き詰まりが出てきて、にっちもさっちも行かなくなったのである。 この頃ようやく、自分の欠陥が見えてきて、これをどのように克服するか悩みに悩み、気がついてみると私の周りには神も仏もないことに気がついたのである。

 ただここに至る過程ではもう少し偶然的なことも有るのであるが、それを言うとかなりおどろおどろしい話になるので止めにしておくが、人は自分本位では生きられないことを遅まきながら知ったのは40台半ばである。
 これは単に人間だけでなく、この地球上の全てが何かによって生かされて生きていると思うのである。 したがって今は仏も神も信じている。それは特定の宗教や宗派ではなく、云ってみれば全ての宗教かもしれない。

 ただ、宗教と言うのは、心の問題であり、お金を出せば得られると言うものでもなく、寧ろ他を利することによって自分の心の安寧を得ることだと考えている(なかなかそうはいかない)。したがって、最近の宗教風のもののようにお金を出して自分を利するようなものは悪徳商売であって、瀬戸内寂聴さん同様に絶対に宗教とは思ってはいない。

 最近の調査では、日本人で信仰心を持つ人が増えているそうである。これはそれが苦しいときの神頼みであったり、多少は「鰯の頭」的であっても良いことである。
 いささか分不相応の話題ではあるが、森羅万象自然の流れに沿って、穏やかな社会が実現できればと歳をとるに従い、祈る気持ちが強くなった。(00.5仏法僧)