サイバー老人ホーム

335.快哉!(2)

 嘗ては読書好きの国民と言われた日本人の活字離れが叫ばれて久しい。一体いかなる事情によりこうなったか考えてみた。単純には読んで面白くないという事だが、何故面白くないかと言えば、文章が分かりにくくなったからである。

 何故分かりにくくなったかと言えば、表現方法のジャンルが多様化し単純に定義できなくなり、併せてそれを著わすメディア(情報媒体)が多様化した事だと思っている。

 最も古い書物は、浄瑠璃、謡い、芝居等の台本として出現したものが読み物としても読まれる様になったからであろう。その当時は、芝居等はめったに見られない市民は、そうした台本を見てその情景を想像して楽しんでいたのだろう。

 尤も、当時の市民の識字率はほんの限られたものであったので、ここら辺りから日本人の勉学意欲を高めるために読書は大きな刺激になったのかもしれない。

 ところが、明治に入り、文明開化の掛け声とともに様々なジャンルが生まれた。その中で、最も注目されたのは映画の出現ではなかったろうか。当初は無声映画であり、弁士等が特異な熱弁をふるって観客を楽しませていたのだろう。従って、読み本と映画にはそれぞれに共通の基盤がありがあり、この傾向は、戦後でも続き、お互いに切磋琢磨し、より良い作品を出すべく努力をされたと思う。

 私が実社会に出た時はまさにテレビの誕生した時代で、当初は、中継画面以外ではそれほど面白いとも感じていなかった。その後、様々なジャンルが出現し、やがてお笑い番組が出現するに及び、日本の文化の様相はがらりと変わるようになった。

 この傾向は時代が経つのに従いますますエスカレートして今でも続いていて、国民総白痴化に拍車がかった。私なども、お笑い番組でタレントが何を言っているのかさっぱり分からず、何故聴衆が笑うのかさえ分からない。

 これと時を同じくしてマンガと言うものが幅を利かせるようになり、やがて様々な広がりを見せ、世の中マンガでなければ夜も昼も明けない様な世の中になった。加えて、近頃では映像までが、CG化という手法が用いられ、それまでの製作者の感性や手腕から外れた方法がとられる様になり、映画の形が一変した。

 更に、近頃の歌謡の世界の変化である。若者たちが、気軽に楽器を操作することに精通するに及び、自ら作曲し、作詞するようになった。それに伴い日本語にやたらとカタカナ語や、英語そのものが混じるようになり、世の中に意味不明な言葉が氾濫するようになった。かつて人気歌手が「ボーカルは楽器の一部」と言うことで、歌詞などは単なる音譜の一つとでも考えているのだろうか。

 これ等が混じり合って、文章全体に意味不明な比喩が多くなった事である。この比喩とは、「ある物事を、類似または関係する他の物事を借りて表現すること」である。昔からお伽噺と言うのがあって、小さい頃から聞かされてきたが、このお伽噺とは、「子供に聞かせる伝説・昔話などで、また、比喩的に、現実離れした空想的な話」と言うことであるが、近頃、文章でも、画像でもすべてこのお伽噺の様なもので、奇想天外で、凡そ人間の住む世界からかけ離れて様のものが大手を振って罷り通っている。それに伴い人々の想像力が衰えて行ったのではないかと思っている。

 勿論、人間の表現力は多様であり、公序良俗に反しない限り、どの様な方法であってもよいのかもしれない。しかし、文章による表現の中で、「小説」と言うものの真髄は、真実性の追求と、これを人に感銘を与える表現ではなかろうか。ここに筆者の感性と手腕があると思っている。史実以外でも、時代背景、時効季節、社会風俗等々事実を証明するものは幾らでもある。

 その結果が、読者に喜びを与え、読書の感動を与えるのではなかろうか。文章は、いたずらに奇をてらい、瞬間的に興味を掻き立てても、永続的な読書の楽しみとはなるまい。
 私の最も尊敬し、大好きな作家藤沢周平さんが、晩年に出された「早春・その他」と言う本がある。この中に「小説の中の事実」と言う一節があり、「歴史小説と雖も想像力を抜きにしては小説はかけない。

 歴史小説における事実の重さは時代小説の比ではない。想像力はこれ等の事実を元に動き出すからである」と書かれていて、一つの例として、明治時代の歌人長塚節の事を書いた「白い瓶」に付いて、伊藤左千夫が長塚節を見舞いに訪れた日時に付いて、たった一日の事で最後まで思い悩んだ様子が描かれている。

 物語はフィクションでも、真実性があるから面白いのであって、真実と真実性は違う。真実性をどう表すかと言う所に作者の腕の振るいどころがあるのではなかろうか。

 この事は、映画の世界でも同じであって、あの伝説的巨匠黒沢明監督の作品を見ると、あたかもその時代に立ち合っているかの錯覚を覚える様な表現が全編を通して描かれていて、そこに面白さがあった。然るに、最近の映画やテレビでも、真実性等は全く無視して、ただ興味本位に描いている。従って、やがては日本映画も本と同じ道をたどるのではないかと思っている。

 加えて、読者と作家の間を取り持つ出版社がそろって漫画的発想に引き込まれて、出版社にとって究極的な顧客である大衆をないがしろにした為にそろって本を読むことから撤退したのだろうと勝手に思っている。その原因は何かと云うと、作家の本来の使命である表現方法が、読者の思いと乖離してしまったのである。

 なぜこうなったかと言えば、出版社が比喩の豊富な作品を重視したり、カタカナ語や、外国語を多用した作品を多く取り上げるようになった為だろうと思っている。

 我が愚娘が、学生時代から後にノーベル賞文学賞候補として注目された某作家の作品に夢中となり、明けても暮れてもこの作家の作品を読んでいた。勿論これが悪いと言っている訳ではない。

 その後、結婚して夥しい本を我が家に残して行った。どんなことが書いてあるかと思い、何冊かの単行本と、全集本を第四巻まで読んだところであきらめた。どの様に読んでも、さっぱり面白くもなく、第一感動させられるものは何もなかったからである。だから、ノーベル賞候補だと云われても、同じ受賞者である川端康成の授賞理由「『伊豆の踊子』『雪国』など、日本人の心情の本質を描いた、非常に繊細な表現による叙述の卓越さに対して」とは大分相違がある様である。

 そもそも、芥川賞作品を「純文学」と名付けたところに問題があったのではなかろうか。誰が名付けたか知らないが、「純文学」といえば、いかにも純粋の文学の響きがある。

 これは、「新文学」と名付けるのが妥当ではなかったかと思う。直木賞が設定された時、「純文学」に対抗して「大衆文学」と呼ばれたそうだが、その当時は、圧倒的な「大衆文学」の中でも「時代小説」に対抗して「純文学」と名付けたのだろうが、今となっては、出版社の大衆化の考え方を根本的に改めない限りこの傾向は変わらない事になり、単なる出版社の独りよがりにとどまらず、日本文化の根幹に関わることになりそうである。

 昭和の初めになって岩波書店が、書物を安価に流通させ、より多くの人々が手軽に学術的な著作を読めるようになることを目的として岩波文庫を創刊し、現在のような「文庫本」のスタイルを完成させたが、出版社にとって有名、無名を問わず作家には限りがあるが、書き手はあまたあるだろう。しかし、出版社に取って、究極の顧客は「大衆」であり、大衆の望むものを出版する努力なくして「読者」の回復などあり得ないのではなかろうか。(13.02.15仏法僧)