サイバー老人ホーム

282.女郎花4

 更に、江戸日本橋に葭(よし)町(現人形町あたり)と云う街があった。ここには、陰間茶屋が集まっていたと云われている。この陰間とは、いわゆる男娼の事で、元来は、歌舞伎の女形の修行中の少年(陰の間の)の事で、男性と性的関係を持つことが修行の一つと考えられていたと云うことである(別掲「不義密通」参照)。

 それが、次第に男娼として特化して、陰間茶屋が増えていったということである。ただ、この料金は非常に高額であり、平賀源内の「男色細見」によると、一刻で一分、昼夜買い切りで三両、外に連れ出す場合は一両三分から三両がかかったと云うことで、とても我々民百姓の手の出せるものではなかった。

 主な客は金銭に余裕のある武家、商人、僧侶の他、女の場合は御殿女中や富裕な商家などの後家(未亡人)が主だったということである。

 それでは我が八っつぁんや熊さんはどうしたかと云うと、「吉原の局見世、俗に長屋と言うは、岡場所の長屋局見世と同制にて、表四尺五寸、裏行き六尺なり。おおむね一主人に女郎三、五人を抱えたり。稀には戸主の妻女も局女郎の数に加わりて売色するもの往々これ有り」といささか驚くべき事が書かれている。芝居や映画でおなじみの、格子窓から、手を振って客に媚びている女郎の姿がこれである。

 そして「青楼(女郎屋)酒肴価の事」と云うのが載っていて、「江戸は吉原・岡場所・宿場ともに遊里妓院の酒肴は定制あり。吉原は一分台なり。吉原も銭見(み)世(せ)は二朱台を出す。半籬(はんまがき)(中店)・小見世ともに客の好みなれば二朱台も出すなれど、特に命ぜざれば一分台も出すなり」

 ここで銭見世とは、揚げ代を銭(文)で払ったことから江戸にあった下等な女郎屋のことである。

 「岡場所・宿場などは通例二朱なり。一客にも台一面、二、三客にも一面なり。台は大略三つ物と云いて、肴三種なり。酒は別価なり。飯の台と言うは、飯を添えて持ち来るなり」

 台と云うのは、饗宴の場合に料理を載せる台のことで、口取り魚、刺身、吸い物の三種が載っていると言う事で、至って簡素な料理と云う事に成る。

 「茶屋つきの客は台の徳(収入)も茶屋の有なり。茶屋付かざる客を素上がりと云うなり。素上がり客は女郎部屋の下男、若い者と云うものよりこれを売りて己が徳とする事なり。二朱の台元価に四百文、一分は八百文なり」

いつの世も同じで、鼻の下を伸ばした好色の男共は、格好の餌食になっていたと言う事であるが、ここでも熊さん、八ッつァんのお呼びではない。

 ところで、遊女が一般的には後ろで結んでいた帯を前で結んでいた事は良く知られているが、この前帯を始め、遊女には様々な仕来たりがあったようである。

 「京阪、官許・非官許の遊女ともに歯を黒(そ)め眉を剃り、髪を両輪(りょうわ)髷などに結いて衣服も華ならざるを着し、二(ふた)布(の)も白縮緬を用いて、その装い常の婦妻の如くなるものを本詰めと云う。美人も三十才ばかり過ぎたる者なり」、二布とは前述の通り女性の下着即ち褌である。かつては華やかに脚光を浴びていた者も、やがて年を経し、容色の衰えとともに主役の座を降りる。

 「歯を黒めたれども未だ眉を剃らず、島田髷にて振袖にて着せざるを若詰めと云う。大略、二十歳以上三十以下成るべし。江戸も吉原には多く、かくのごとくなれども、この称なし。この装いは江戸俗に云う半元服なり」

 「白歯もまたは歯を黒めたるもあれども若年成るを振袖と云い、振袖を専用するなり。大略、少年の遊女の称なり。京阪芸者は多くは同扮なり。振袖を着する芸子を舞子と云うなり」

 「芸子とは舞妓なり。即ち江戸に言う芸者なり。義太夫を語り、三弦に合する妓を義太夫芸子と云うなり。美人も有れども、また醜くして常の芸子になりがたき等、専ら浄瑠璃芸子にするなり」

 「年長(たけ)たる娼の眉を剃り、髷も両輪(りょうわ)等に結い、衣服も華ならぬを着し、偏に坊間(町内)婦人のよそおいなるを云う。けだし帯は前に結ばず背に結ぶといえども、京阪の俗は、眉を剃り歯黒めたるを前帯と言うなり。

 ふり袖と細書きするは、処女の如く長袖を着す弱年の娼を云う。まえ帯、ふり袖と着さざるは中齢の娼なり。大略十七、八より三十以下に至るものなり。この中年の娼を京阪の俗言に若詰という。前帯を一名本詰という」

 遊女といえども様々な呼び方があり、同じ年頃の女性として、複雑な思いがあったのだろう。

 江戸時代、遊女は、女性のファッションの最先端を行っていたのである。これは、当時人気があった芝居などで、遊女悲恋物などが盛んに取り上げられ、それがやがて女性のファッションとして取り上がられたのだろう。今でも一部の若い女性たちの間で、フーゾクの女性を模したファッションが取り入れられているようである。

 更に、現在でも残っているかどうかわからないが、東京に「ざあます」などと云う山の手言葉があったが、これなども、芝居見物などにも事欠かなかった富裕層の子女が、遊女の使った「なあます」言葉が変じて日常でも使うようになったのではなかろうか。

 ただ、ここまでは、官許・非官許にかかわらず、いわばオフィシャルの遊女である。ともに地獄であった事には変わりがないが、せめて美服に身をまとっていたのがせめてもの慰みではなかったろうか。

 それすらも満足に出来ずに、身を鬻(ひさ)ぐことでようやく生命を維持していた女性たちが居たのである。

 先ず白湯文字と云うのがある。「坊間の密妓を云う。江戸の地獄と同物なり。陽(普段)に正民と見せ、夫ある婦または夫におくれたる孀(そう)女(やもめ)、またはまだ嫁ぎざる女など貧民の所業なり。予、物を覚ゆえる以来、その実を見ず」

 江戸時代後期には様々な事情で武家も困窮し、取り分け騒動等により遠島や御仕置になった場合、残された家族は即刻困窮する事になる。白湯文字には、このような場合、名前や身分を伏し、身分をやつして身を売ったりした武家の妻女などが有ったといわれている。

「白湯文字と名ずくることは、売女は必ず緋縮緬二布を用ゆ。正民とても緋を用ふれども、婦は専ら白を用ふ故に、売女の緋に対し白湯文字と名ずくるなり」

 そして、「びんしょ」と云うのがある。「大阪南堀江六丁目にありし故に、略して六丁目と云う。天保府命後、幸町の西崖に移す。この所は坊間の人を専客とせず、船人を専らとするなり。水(か)主(こ)の招きに応じて泊り舟に移り、胴の間の戸口にて交合するなり。買色は専ら米を以ってする由なり。米一升あるいは二升も与うるなるべし。江戸にて船饅頭と云うべし、小舟に乗りて海泊の船に往きて売色する土妓の類なるべし」

 流石に、好色の日本人、いたるところに売春の手は行き届いていたのである。それにしても米一升とは日傭取り一日の手間賃にもならない額である。

 更に、良く知られたのに、土手や、寺の境内に現れて売春をする夜鷹と云うのがある。
「夜鷹は土妓なり。今江戸の流行唄に、「京で辻君、大阪で孀(そう)嫁(か)、江戸の夜鷹は吉田町(現本所)」

 「各所に昼は取り除き制したる夜のみ用ゆ小屋を組みて数戸を開き、毎戸草筵(むしろ)を垂れ、戸口に立ちて客を呼ぶ。夜鷹数人の中にぎゅうと云う男一、二人副(そ)いて喧嘩などの防ぎとし、かつ客を勧むなり。

 けだし冷やかしと云いて買色の意なき者立ち寄りてこれを見物するなり。そのひやかしに、戸辺に長く立ちては、客の妨げとなる故、かのぎゅうと云う夫、小腰をかがめ「さあさあ、ざっと御覧なされて、御覧なされて」とこれを断るなり。敷物も草(くさ)筵(むしろ)なり。年は十五より四十以上もあるなり」

 彼のストリップショウの観客と同じような好色な男たちが、江戸時代からいたと言う事で、セックス好きの日本人の本領躍如と言う事だろうか。

 このぎゅうとは、私娼や夜鷹に付いて、客引きなどをして歩く男で、遊女の生き血を吸って生きているやからがここにも居たのである。

 江戸時代、女郎と言われる遊女の多くは、年季奉公であったといわれる。通常は十年季といわれているが、実質は身売りだったのである。

 その間に稼ぎを見越して、女衒(ぜげん)という、女を遊女屋に売るのを商売にした者によって、夫々の女郎屋に売られていった。売られていく娘達は、凡そ十歳頃からといわれ、子供ながら自分の身の上は知っていただろう。

 運よく年季明けを迎えられた女郎はどれほど居ただろうか。大方は、性病に犯されるか、年季前に容色が衰え稼ぎが少ない女郎は虐待され、生き残ったものも少なかったのである。

 かつて甲州街道の最初の宿場であった内藤新宿で、今の新宿区二丁目に成覚寺という浄土宗の寺がある。この寺は、昔から「投げ込み寺」と言われていた。

 投げ込み寺は他にもあるが、かつての宿場女郎が死ぬと粗末な扱いを受け、戒名もなく投げ込むようにして墓穴に葬られ、供養する者もいない無縁仏になった。したがって、古い過去帳には年号だけで、殆ど記載事項も無かったと言われ、途中から年号、月日別に法名と俗名を記し、年齢不記入が原則であったと言う事である。

 明治二十五年新政府になってから全部年齢が書き加えられるようになり、それによると、前年の二十四年には十二人が葬られ、続いて二十五年には八人が葬られている。
この年齢を見ると、二十歳三名、二十一才一名、二十二才一名、二十三才一名、二十四才二名と何れも二十代前半のうら若き女性たちである。

 凡そ、遊女や女郎に関するおびただしい記載が残っており、むしろこれらの記録は日本の文化史そのものである。

 ところで、この章の標題「女郎花」となっているが、これをオミナエシと読める人はかなり植物に関する造詣の深い人ではなかろうか。

 この「女郎花」とは、夏の終わりから初秋にかけて咲く黄色い楚々たる花で、凡そ女郎にイメージとは程遠い、かつてはどこでも目に付く野花であった。

 この花の由来を調べてみると、オミナとは、若い女性、とりわけ美しい女性ということであり、これに花の形状を表す粟飯を意味するエシを付けたということである。

 しかも、この名前の起源は、今から千百年以上前の延喜五年(905)に編まれた古今和歌集に次のような歌が載っているということである。

「一人のみ 眺(なが)むるよりは女郎花 我が住む宿に植えて見ましを」

 野に咲いている女郎花を一人で眺めるより、自分の家に植えてゆっくり見たいものだという意味だが、この場合、女郎花は美しい女性を意味しており、我が家で一緒に過ごしたいという気持ちを表しているということである。

 この歌の詠み人以上に至る所にいた遊女や女郎たちは、地獄のような毎日に中で、家族と一緒に暮らす願望を持ち続けていたことだろう。

 近頃、「出会いサイト」「援助交際」などは、女子学生などが男性と性交渉をもち、金品の提供をうけることと云うから嘆かわしい。勿論、家が貧しいからと言う事であれば、良くない事ではあるが、動機そのものには多少は理解できないわけではない。

 それが親の脛をかじりながら、己の本能と、欲望の赴くまま売買春を行うとは、何たる罰当たりの所業と思うのである。ただ、別にカマトト振るわけでもないが、これらの実体が、売買春であるかどうか知る由もない。(10.02仏法僧)

殿様の事件簿:磯田道史:朝日新聞社
守貞謾稿「近世風俗史」:喜田川守貞著・宇佐美英機校訂
内藤新宿の遊女:北小路健著・「地図で見る新宿区の移り変わり『四谷編』所収」
東海道中膝栗毛:十返舎一九作・麻生磯次校注・岩波文庫