サイバー老人ホーム

280.女郎花3

 歴史学者で、文筆家の磯田道史さんの「殿様の通信簿」によると、「江戸時代の倫理では国と祖先を祭る儀式に使われる芸能を除けば、あらゆる芸能は「悪」であり」、それらを催す場所は「悪所」であり、「遊郭は遊里と呼ばれ、俗悪な風俗である」ということで、けだしもっともである。

 今更ながら、我が青二才の頃の、ストリップショウなどの悪所通いを、汗顔の思いで反省している次第である。

 ついでながら、「悪」に入らないものといえば、式樂や、権力の儀式に用いられる歌舞音曲などで、能や謡曲等と言う事である。

 それでは、この「悪所」にはどのようにして訪れるかと云うと、流石に、「悪所」通いを公然とすることは我がストリップショウ見物と同様に気が引けたのだろう。

 「昔は三都ともに通り客の編み笠をかむりしなり。江戸にはこれを用いる事諸書に見ゆれども、とうしょにもこれをもちゆ事多くは聞かず。

 昔は三都ともに廓通いに羽織を頭上よりかむり顔を隠すもの在りしなり。とかく昔は何国も遊里に往(い)くには面を隠せしなり。また当廓も昔は廓中に駕籠を禁ぜしを見れば、京島原も同制にやあらん。江戸吉原のみ今も廓門出入駕籠を持ちゆる事官禁なり」となっている。

 ところで、吉原とは、浅草浅草寺の裏側(北)にあり、周囲を掘割で囲まれており、入口はいくつかあったが、出入りできる大門は一箇所である。

 したがって、出入りは一般市民も出来たのだろうが、気軽に遊女を呼ぶことは出来なかったのである。平民に限らず、武士であっても吉原は格好の見物場所だったのである。

 ただ、吉原の遊女は、「江戸吉原町は上中下品ともに、遊女は廓外に出す事をさらに許さざるなり。芸者は時に臨んで外出するなり。

 吉原遊女、外出は火災の時と官庁に出ることある時のみ」と、火災のときは、大門以外の門を開き、そこから遊女を逃していたのである。

 これを裏付ける記録が残っていて、紀州藩勤番武士酒井伴四郎の日記の万延元年(1860)九月二十九日の条に、「四つ時(午後十時)東の辺り大火事」、そして、翌九月晦日に「吉原出火女郎共何方成る共心に任せ行き次第の由、それも三日中の事に候由、三日過ぎ候て見つけ候はば又苦界に沈む」と書かれている。

 遊女は置屋に雇われていて、客は、置屋に対してなじみの遊女を指名するわけである。ただ、吉原と違って、京阪の場合は少し状況を異にしている。

 「京阪官許・非官許の地、ともに遊女・芸者を抱え養い、揚屋・茶屋・呼屋等より迎える時、これを遣わして自家に客を迎えざるを云う。

 また、遊女・芸子ともに、置屋に身を売らず自宅別にありて、これを行うものを自前と言い、すなわち置屋に得意ありて、揚屋以下より、これを置屋に迎え、置屋より、これを自宅に迎えるなり。この徒(やから)を自前稼ぎ、仮店の女郎、あるいは芸子と言うなり。江戸にては、自前稼ぎを出(で)居(い)衆(しゅう)という。近世、主人に抱えられず、自前で営業した芸娼妓なり」

 然らば、揚屋とはどういうものかと云うと、「揚屋は娼妓を養わず、客至れば大夫を置屋より迎え饗するを業とするなり。ただ鹿子位以下の遊女を迎えず。京師島原・大阪の新町は今もこれあり。江戸も昔これあり、今は揚屋これなし」

 即ち、揚屋とは、我々如き下賎の者が近寄れるようなところではなく、上客を迎えるためのものであったのだろう。

 次が、茶屋である、「三都ともこれあり、京阪の茶屋は天神を揚げて遊ぶ楼を云うなり。故に天神茶屋というなり。天神茶屋には天神・鹿子位の遊女および芸子を迎え、ただ太夫を迎えることあたわず」

 これでも、我が八っつぁん、熊さんの近寄れるところではない。もう少し下がって、呼屋と云うのがある。

 「呼屋は京阪ともに鹿子位の遊女を迎えるの小楼を云うなり。大阪新町に戸数およそ二百四十余。因みに非官許の楼も茶屋と言う。しかれども廓にあらず。町裏にも多くあり、江戸に云う裏店茶屋なり」

 ようやくにして、遊女とご対面と言う事に成るが、我が若かりし頃に見たストリップショウではないが、すぐさま売春行為が行われると思ったら大間違いである。

 「京阪芸子、色をも売ると言えども、また女郎の如く仮初(かりそめ)には双枕せず。その主人たる置屋に茶屋を以ってこれに談じ、金を与えて後に双枕するを本とする。

 その与う金を枕金と云い、毎地金数の定めあるにあらず。多き時は、十両あるは二、三十両、少なき時は一、二両なるべし。けだし一会にして容易これを許さず。多くは酒肴にその妓を迎ふ事しばしば成るもの成るべし」

 さすがに遊女文化華やかで、「双枕」とか「枕金」などと云う専用語まで出現している。ただ、百姓や、日傭取りといわれる大部分の町人達の稼ぎは、一年にせいぜい十両から十二両といわれた時代である。

 更に馴染金と云うのがある。「馴染金は多く二、三回目に与ふなり。初回馴染と云いて、その遊女、客の心に叶い長く通う心なるものなり。

 二回目をうらという故に、二回目にこれを与ふを裏馴染と言うなり。三回目は是非を云わず、必ず馴染金を出す事なり。二、三会に至れどもこれを与えざる前は、女郎を始め新造・禿(かむろ)等も客の名を云わず、ただこれを呼ぶに客人、客人と云うなり。

 また馴染金前は房中(情事中)にも細帯を解くこと、はなはだ稀なり。馴染後は必ず細帯をも解くなり。すなわち寝巻き帯を解くなり。

 上品妓、馴染金おおむね二両二分なり。これをその妓にあたう。妓よりその客を得意とする茶屋に二分、茶屋下男に一分、自家下男に一分と配分す。これを惣花と言う。

 右の如く大半これを分け与え、妓の全く得るところは半金なり。見世女郎、一両三分、二朱女郎一両ばかり」

 即ち金の切れ目が縁の切れ目、寝巻きの帯も解かず、客を客とも思わぬ所業で、遊女のしたたかさが存分に発揮されている。
 これを見ても、一通りや二通りの金持ちでなかったら、茶屋遊び等思いも寄らなかったのだろう。(10.02仏法僧)