サイバー老人ホーム

279.女郎花2

 江戸時代、こうした遊び女(め)を遊女と呼んでいたことは良く知られたところだが、ご存知、「守貞満稿」によると、「「世事談」にいわく、遊女を指して傾城(けいせい)というは、寛文(十七世紀後半)の頃より云い始むと云えり。遊女は江口・神崎(大阪)などの船着に有りて、船に乗りて船ごとに来る故に、流れの女、浮かれ女等というなり。

 ある人曰く、平家西海にて亡びし時、官女・宮女多く下関・門司・赤間湊にさまよい、世渡る業を知しらざれば、人の遊びものになりて、遂に遊女となれり。傾城は遊女に限らず、総ての女を云えり。然らば遊女を傾城という事、寛文より甚だ古し」と書かれていて、文治元年(1185)源平の合戦に敗れた平家の見目麗しき女御どもは、生きるために自らの身をひさぎ、生き延びてきたと言う事である。

 そして、「ある書に言う、傾城と言うは、李延年の歌に、北方に佳人あり、絶世にして独り立つ。一度これを見れば、城を傾け国を傾くと謡い、己が妹に李夫人を勧むより傾城を美人の惣名とす。いつとなく遊女のみの名となる」と言う事で、余りの美人のために、思わず振り向き、果ては城を傾け、しまいには国をも傾けてしまったという故事から来ていると言う事である。

 「今世、遊女・傾城・浮かれ女等の名、ただ文上に言うのみにて、京阪、上品(じょうぼん)妓を太夫、次を天神と言い、吉原にて「おいらん」と云う。それ以下は、京阪にて「おやま」「ひめ」等をもって通昌とし、江俗は「おいらん」以下を惣じて女郎と云い、極卑しめては三都とも「ばいた」「ふんばり」なり」

 同じ遊女でも様々な呼び名があり、それによって格付けされていたと言う事であるが、遊女を傾城と呼んでいたことはこの年になるまで知らなかった。

 それでは上品妓の筆頭太夫とはいかなるものであったかと云うと、
「太夫、この名目は京都より始まる芸の上の名なり。慶長の頃まで遊女ども古舞・乱舞を嗜(たしな)み、一年に二三度づつ四条河原に芝居を構え、能太夫を皆傾城が勤めしなり。島原太夫、今は一昼夜銀七十二匁、大阪新町の太夫、一昼夜六十九匁」

 「守貞満稿」の作者喜田川守貞は天保時代(十九世紀前半)の人だから、銀七十二匁とは、金一両二朱ぐらい、日傭取りと呼ばれた八っつぁん、熊さんの凡そ一か月分給料である。いずれにしても、世の下々ではお目にかかれる相手ではなかった。

 続いて、天神、「ある人曰く、天神と号すことは一昼夜に銀二十五匁成るが故に、菅廟の縁日に因みて名とす。大阪新町天神、昼夜三十三匁」、ここで菅廟とは菅原道真を祭った天神様のことで、菅原道真の命日が、二月二十五日であり、毎月二十五日が天神様の縁日だった事から天神様の縁日にちなんで天神と呼び、値二十五匁だと言う事である。それにしても、太夫の三分の一と云うのが安いのか、高いのか・・・・。

 ここまでは、揚屋と云うところで、遊女を呼んで遊ぶと言う事である。因みに、揚屋とは、「揚屋には娼妓を養わず、客至れば太夫を置屋より迎え饗するを業とするなり。天神および芸子・幇間も客の求めに応じてこれを迎えるなり。ただ、鹿子(かこ)位(い)以下の遊女を迎えず」

 ここで芸子とは、宴席で踊りや三味線を披露する今で言う芸者と呼ばれるもので、幇間は男芸者、即ち太鼓持ちである。

 そしてもう一ランク落として、鹿子位(かこい)と云うのがある。「かこいは十六文、四四の算法辞よりでる。かこひ、太夫・天神に比すれば詫びていると言うより、茶燕のことかたどりて囲うと云う。茶席をかこいというなり」

 昔の人は誠に不思議なたとえをするもので、茶室の事を囲いと云い、囲いは四囲を巡らす事から、四四の十六につながり、したがって鹿子位は十六匁だというのである。茶や遊び等は、それ程おおっぴらに話す事でもなく、なんとなく符丁で、「ゆうべはかこいだった」等の会話が交わされたのであろう。

 ただ、ここまでは京・大阪の場合で、一般に、吉原の遊女を「花魁(おいらん)」と呼んでいたと聞いているが、「守貞満稿」に何故か前述以外に花魁の事は出てこない。Goo辞書によると、「江戸吉原で姉女郎を呼ぶ「おいらの(姉さん)」がつまったもの」いうことである。

 一説によると、江戸での遊郭の遊女の多くは、地方から身売りされてきた者が多く、遊郭では方言が飛び交っていた。これでは、客にもなじまないということで、遊郭独特の「なまし」言葉が普及し、その中で、遊女が互いに呼び合っていた「おらあ」などが「花魁」に変わったと云われている。

 それでは江戸ではどのように呼んでいたかと云うと、太夫は太夫で同じ、次の天神の名は吉原にはなかい。

 したがって、太夫の次は、「格子」、即ち格子女郎である。「守貞満稿」によれば、「大夫の次、京都の天神に同じ。大格子の内を部屋に構え、局上臈より、ひときわ勿体を付くる。局に対し紛(まぎ)れぬように格子と言う名を付けたり」と言う事である。
続いて、「局女郎、一日の揚銭二十匁なり。ただし、寛文中散茶と言うもの出て来て、揚銭散茶と同じく金百疋(一分)となる。」

 これだけかといえばさにあらず、享保十九年に刊行された「吉原細見」によると、「大夫四人、格子六十五人、散茶二人、新座敷持二百九十人、昼夜新二十二人、座敷持百二十七人、部屋持ち三百十五人、その他無印の下妓の局に至る迄千二百八十三人、惣計二千百八人なり。この他、東西川岸にある局女郎は細見に載せざる故にその数をしらず」となっていて、遊女といえども様々な格式があったのだろう。

 映画や芝居で、格子の中から、手を振って客を呼ぶ風景を目にするが、あれは「無印の下妓」と云う事に成るのだろうか。

 そもそも、江戸吉原は官許の遊女町と言う事で、さしづめ今で言うならば、吉原の遊女は国家公務員と言う事になる。この遊女達は、今の官庁街に劣らず、厳しい序列があったと言う事である。

 「今世官許の遊女町、浅草の吉原、京都島原、摂州兵庫磯の町外二十二箇所」あり、これ以外に、非官許の遊女町が各所にあり、「江戸にては、深川以下を岡場所と云う。かくのごとく遊女町に柳巷」の字を当てていたのである。

 「京阪俗言には官許・非官許ともに遊女町を「いろまち」という。江戸俗は官許・非官許ともに「あくしょ」と云う。悪所なり」となってする。(10・01仏法僧)