サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

70.女王蜘蛛「エリザベス」

 病室の窓の外に巨大な蜘蛛がいる。体調7センチにもなろうというのだからまず巨大といっても大げさでもあるまい。黒と黄色のまだら模様の蜘蛛だが田舎で見た鬼蜘蛛よりは少しからだがほっそりしているが、まず同類と考えても良いだろう。

 病室には夜間と食事の時以外いないので、いつも眺めているわけではないが、ベッドに横になると否応無しに目に付く。はじめの頃はいささか薄気味悪さもあったが、別に室内に入り込む恐れもないし、この病院建物の外部の清掃をする足場がないから退去を迫られることもない。

 毎日眺めているうちにだんだんと情愛を感じてくるから不思議である。この蜘蛛、実は蜘蛛一家である。この蜘蛛の巣にはこれ以外に体調3センチほどと、それより更に小さい蜘蛛の2匹が同居しているのである。正確に同居しているかどうか定かではないが同じ縄張りの中に3匹がいるのであるから同居と見ても差し支えないだろう。

 ところでこの3匹の蜘蛛の「血縁」関係という事になるとどうやら親子ではないらしい。昆虫の世界では往々にして見栄えの良いほうが人間と違って雄である場合が多いが、どうやら蜘蛛の場合はあの尻のでかさといい、旺盛な食欲といい、更には見栄えといい、威風堂々としているほうが雌ではないかと思っている。

 この雌のほうはもちろん体調7センチの大物であり、常に蜘蛛の巣城の中心に、あたかも大英帝国の栄華を誇るかのように常に両手両足を広げて鎮座しているのである。ここで蛇足ながら何故大英帝国かといえば、手足8本を広げている姿はあたかも大英帝国の国旗、即ちユニオンジャックを広げたように堂々としているのである。

 そこで不敬ながら「エリザベス」と命名することにした。この蜘蛛というやつ、蜘蛛の巣城にいるときは城の内側、即ち窓側にあっておなかを外に向けているのである。その上頭を下に、尻を上に向けているのである。何故このように頭に血が下がるような窮屈な姿勢をとっているのかは知らない。これでは排泄の際、不衛生ではないかと思うのだがさにあらずである。胴体の何倍かあるようなでかい尻を器用に突き出して瞬時に排泄するのを目撃したのである。

 一方、雄のほうはと言えばこれが情けない。体長こそエリザベスの半分ほどであるが、尻のでかさもてんで比較にならない。最も蜘蛛ばかりではなく最近は、人間の世界でも中年女性と男性を比べた場合同じような傾向がなくはない。

 この雄二匹、決してニアミスは起こさない。はじめは小さい方(ナンバー3)が外側で、中位(ナンバー2)が少し内側のエリザベスの近くに侍っていたので、序列に従い、そういうゾーンディフェンスをとっているのかと思ったが、ある日ナンバー3がエリザベスより内側、即ち窓側に来て、それも女王と同じユニオンジャックを広げて翩翻としているのである。
 考えていたほどの規律性はないと考えたのであるが、翌日見るとナンバー3の姿が見えないのである。さては哀れにも落下したかと思ったが、女王の足元、即ち窓側にある食べ滓の中に蜘蛛の残骸らしきものがあるではないか。要は「出過ぎた真似をする」と叱責を食い、哀れにも食べられてしまったのではないかと思っている。

 ところでこのナンバー2は5本足なのである。もともと3本なかったのでは勿論ない。考えてみるとこれは大変なことである。体全体の40パーセントもの部分が欠落しており、体の一部が動かない私などの比ではない。もともと足場の悪い垂直方向にいて、いざというときに頼りになる後ろ足と斜め後ろ足の1本がないのである。見ていると時々落ちそうになりながらそれでもけなげに動き回っているから奇妙である。

 この足どうしたのかといえば、獲物のないときに自ら食べてしまったか、エリザベスに献上したのではないかと勝手に想像している。この程度の忠誠度を持って仕えないと側近ということにはならないかもしれない、と思っているうちにこのナンバー2も姿が見えなくなった。猿も木から落ちるという話はあるが、蜘蛛が巣から落ちるというのも様にならない話である。

 それにしてもこの雄が何かを食べているのを見たことがない。雄の場合、垂直方向の糸を頼りとしているから得られる獲物少ない。ひたすら女王のそばに蜘蛛のようにひれ伏して侍っているのである。それに対してエリザベスはといえばこれが実に食欲旺盛なのである。朝シャッターを開けると自分の体ほどもある獲物にむしゃぶりついているのである。その眼前には(外側のことである)ナンバー2がうるうると身もだえしながらおこぼれに与かろうとしているのであるが、エリザベスは足1本といえども分け与えようとはしない。実に「不人情」である。骨のずいまで食べ尽くすと残骸をぽいと足元に放り出すのである。

 ここで足元とは窓側のことで、女王の定位置からは足元になるが引力との関係からは水平方向になる。何故食べ滓をそのまま落下させないかという疑問が起こるが、そこのところは定かではない。以前テレビか何かで、豊かさを誇示するためにありったけの食べ物を家の周りにぶら下げる人間の風習を見たことがあるが人間も蜘蛛も余り大差ないのかもしれない。
 尤もこの蜘蛛というやつ、獲物を捕まえたらその場でがつがつ食べるような品のないことしない。必ず自分の定位置の持ち帰ってから食べるところはさすが王侯の血筋を引いているだけはある。

 このエリザベス、食事の後には器用に手足を折り曲げて口できれいにぬぐうのである。この場合、8本ある足をどの順番でぬぐうのか眺めてみたが特に規則性は無いらしい。規則性といえば朝方、時々巣繕いをするのであるが、あのレーダーチャートのような蜘蛛の巣城を全面に渡って繕うようなことはしない。ある一定方向に分けて行うのであるが、厳密に縦糸で範囲を決めているかといえばそこまでは几帳面ではないようだ。

 これから蜘蛛の習性について、ファーブル以上の論文でもと期待していた矢先に、我が女王陛下、10月のある朝、忽然と姿を消してしまったのである。あの栗本先生は野良猫で心の癒しとなったようだが、人の気持ちも分からない、何とも可愛気が無い「奴」である。考えてみれば退屈しのぎとは言え、人騒がせな蜘蛛であった。(02.10三朝温泉病院にて仏法僧)