サイバー老人ホーム

337.実学(2)

 それ以来も陶芸の面白さは忘れられず、十年程たった昭和五十年代の中頃、再び井の頭公園に隣接された瀟洒な黄色い建物のカルチャースクールに参加した。この頃になると、女性の受講者が圧倒的に多くなっていた。

 ここでは、「紐造り」、「型押し」の実習が多かったように記憶しているが、ここに来て初めて電気轆轤を扱わせて貰った。ただ、電気轆轤でできた製品は、綺麗には仕上がるが、それだけのものであり、面白いという程の事はなかった。

 最初の実習は紐造りであり、兼ねて実行してみようと思っていたものである。それは、底の部分を除いて粘土の紐で作り上げるもので、二重のハート形を互い違い向き合せるというもので、陶器の容器としては聊か風変わりの物になって、今でも筆立て以外に用途もなく使っている。

 「紐造り」では自由な発想から、様々の物を造る機会に恵まれた。その代表的なものが、写真の「異形花瓶」である。

 始めの頃は、その形状の異状さから、家族も私も見向きもしなかったが、最近になって、家内が通常使っている花瓶に代わって、使用する様になり、我ながら面白く感じている。

 勿論、通常の花瓶をこのように変形させたわけではなく、意図的に作ったものである。造るにあたっては、単なる円形の積み上げではなく、「の」の字の積み上げで、一方には水が入らない事を証明するために切り欠き入れた。

 「型押し」では、いくつかのお気に入りが出来あがった。その一つが、テーマとして与えられたタイルの製作であった。大きさは15センチ四方程度であったが、我が故郷の冬枯れの落葉松林の情景を想定したものである。

 我ながらよく出来たと思っているが、誰ひとりとして注目した事もない。

 もう一つ、これは私よりも一緒に学んでいた女性方に人気があったものがある。それがこの「野仏像」である。

 そしてその背面に家内と娘達の「健康と両手いっぱいの幸せのために合掌  愚父」と記したのである。聊か芝居じみた様な事だが、健康の方はさて置き、両手いっぱいの幸せはいまだ実現していない様である。

 もう一つは立像で、これも女性会員には人気があったが、私の作品の一つは、田舎の仏壇に飾ってもらっている。

 私が造った作品の中で、私が最も気に入っているのは「牡丹紋四辺象嵌瓶子」である。と言うといかにも気取った風に見えるが、もともと紐造り花瓶であったものを四方を平板で叩き、平らにし、其の上に牡丹の花を描き、その部分を彫り込み、その上から色粘土を置いて、乾いた所を掻き落とし象嵌部分だけを残して焼き上げたものである。

 首の部分の釉薬が良くかかっていなかったため不満だったが、最近になって、それはそれとしての味わいがあると感じている。

 このカルチャーセンターで、ある時塾生が造った様々な作品のバザーを開いた事があった。この時、私は「手捻り」の抹茶茶わんを出品したが、陶芸部門で買い手が付いたのは私の作品だけであった。これも邪道と思ったが、茶碗の見込みに小さなコオロギの絵を描いたのがうけたのかもしれない。

 ところで、実学と云うのがある・・・・、そうである。実学とは、「一般には、空理空論でない実践・実現の学の事」で、社会生活に実際の役立つ学問で、その代表的なものは農業であるということである。

 これを厳密に定義づけるのはかなり難しそうだが、平べったく解釈すると、実生活で役に立つ学問(考え方)ということらしい。それならば、その反対は、「虚学」と云う事になるのか、私などは「虚学」だけを選んで生きてきたような気がしないでもない。

 昨年、何年振りかで小学校・中学時代の同級会に出席し、今なお現役として生き生きしているのは、農業や、職人として「実学」を身をもって体験してきた同級生ばかりであった。

 これ等をとやかく言うつもりはないが、この歳になると、子供の頃から熱中した遊びの中で、私にとってささやかな「実学」の経験であった陶芸に対する思い出は未だに身に付いて離れない。

 備前焼の人間国宝の陶工金重陶陽は、「芸術は創造である」と言われたそうだが、ここで、金重陶陽の名前を出すのもおこがましいが、私にとって、若かりし頃、僅か二年足らずの歳月であったが、陶芸に明け暮れたこの時期は私にとってまさに珠玉の一時期で有ったような気がする。

 遥か昔の縄文時代、人々が、今でも目をむく様な縄文土器の製作に熱中したことに思いをはせると、粘土細工と言うのは日本人の中に脈々と受け継がれてきた遺伝子であるのかもしれない。(13.04.01仏法僧)