サイバー老人ホーム

336.実学(1)

 誰でも幼いころからの夢で、今以って心残りのものが一つ、二つはあるのではなかろうか。私の場合、巧拙は別にして、何故か工作には特別な思いがあって、学芸会などでは欠かさず何かを提出していた。

 最初は、小学校三年生頃に雑巾を作って提出して褒められた記憶がある。その後、学年ごとに何らかの作品を提出していたが、今でも記憶に残るのは粘土細工であった。私の家は、千曲川の畔にあり、その岸部からは至る所から粘土がとれた。

 その後、二十数年の時が過ぎ、陶芸に付いての興味は歳を経るに従い高まって行った。三十代も半ばを過ぎるころになって、とうとう我慢しきれなくなって陶芸教室に通うようになった。今でこそ陶芸教室は各地に沢山あり、取り分け女性たちに人気のある習い事になっているらしい。

 最初に参加したのは、東京原宿の東郷神社の一角にある陶芸教室だった。当時の指導者は、陶芸家加藤唐九郎さんの縁者の方がやって居られ、今でもその指導は誠に適切だった記憶がある。

 そこで、生まれて初めて陶芸用の粘土に触り、菊花揉み等の初歩的な指導を受け、始めて作ったのが煙草の灰皿であった。作ると云っても、いわゆる「手捻り」と称するもので、始めからロクロ造りを期待していたので少しがっかりした思いがある。 ただ、指導者の先生が、「ロクロより、手捻りの方がずっと面白い」と云われ、その事に気がつくのはずっと後になってからである。

 この灰皿は、我ながらよく出来たと思っていたが、間もなく、家内か、子供たちに依って割られてしまった。

 今に残るのは、簡単に割れそうもない代物ばかりで、灰皿の次に作ったのも「手捻り」で、これは、手の中で適当な大きさのだんごを作り、これを手の中で適当に押しつぶしたり、押し広げて目的の容器などを作るいわゆる粘土細工である。

 従って、肉厚のものが作りやすく、香の物などを入れる小鉢を作った。この時、暫く手の中でこねまわしていたら、縁の部分に罅(ひび)が無数に入ったが、女性アシスタント指導員が、そのままにした方が面白いという助言を得て作ったものである。

 ただ、以前、本で見た唐津焼を真似て野草紋の絵付けをしたが、出来あがったのを見たら上薬によって絵模様は崩れてしまった。それと、洗浄などの場合扱いにくいのか、家で使われるのを見たことがない。

 次が、「たたら造り」であった。これは、目的に合う大きさの粘土の塊から、一定の厚さの粘土の板を何枚か作り、その縁を立ち上げるか、縁をつけて器を作る方法である。

 この時は、四枚セットの平小皿を作り、その中に季節の草花を書き込んだが、ヘリが焼成温度によって押し戻され、ほぼ平面になってしまった。ただ、絵付けはほぼうまく行ったが、絵そのものはかなり幼稚なもので、未だに我が家の食卓にのることがある。

 この「たたら造り」では、後に自由製作の中で、箱型の器の中に折り鶴を置いたものを造ったが間もなく割られてしまった。

 次が「イッチン」である。この「イッチン」とは、平板に粘土の紐を張り付けて様々な模様を付ける事だと教わったが、正確には「イッチン盛り」とは「泥漿や釉薬によって盛り上げの線文を表す装飾技法」と言う事らしい。

 従って、我々の場合は、単なる「貼り付け」だったかもしれない。当時、粘土の紐で唐草紋を描こうとして、恐ろしく分厚いものになってしまい、女性アシスタントから、「植木鉢にしたら」と言われてあっさり底に穴をあけ、その頑丈さから未だに我が家の庭に転がっている。

 次に出てきたのが「型押し」である。この「型押し」とは、ゴム粘土で原型を作り、これに石膏を流し込んで型を取り、ここに、タタラ板ないしは粘土を埋めて目的のものを造るのである。

 この時は、かなり大型の青桐の葉を使い平皿を造ったが、これだけでは物足りず、その皿の中に蛙の置き物を置いたのである。自分ではかなり巧く出来たと思ったが、後で考えて食べ物を盛るお皿の中に蛙の置き物と言うのが果たして許されることか未だに思案している。
以前造った「たたら造り」では、後に自由製作の中で、箱型の器の中に折り鶴を置いたものを造ったが間もなく割られてしまった。器の中に何かを置く事は、用途、後の清掃などを考えて、無暗なものを置くべきではないと痛感した。

 この時の口座はほぼ一年で、当時の私の給料からみた場合、かなり割高であった。講座の終わりごろ、待望の「紐造り」を教えられた。

 この「紐造り」とは、別名「より造り」などと言われ、粘土を紐状に長くのばし、これを器の底になる粘土板に紐をトグロ状に積み上げて行くのである。この時からようやく手回し轆轤を使う事になり、「紐作り」の最初の作品は当然の茶碗であった。茶碗は大小いくつか作ったが、今に残るものは一つもない。ようやく、一つ残ったのが、口に欠けのあるぐい飲みである。廻りには稚拙ながら龍の絵を施しているが、まさに分不相応と言うところだろう。

 ただ、「紐作り」では、是非とも造りたいものとして、「鶴首瓶子一輪差し」であった。と言えばかなり大げさのようだが、例の「陶器図巻」をみて何時か作ってみたいと思っていたのである。そして勇躍作り上げたのが、下部に鉄釉、上部に白長石釉を懸け分けた「懸け分け鶴首瓶子一輪差し」であると言いたいが、これではどう見ても鶴の首とは見えず、「猪首」である。
 

「紐造り」ではかなり大物の部類に入る蓋つきの「甕」がある。ただ焼きが甘かったのか、一度梅干しを入れたが、日が経つにつれ中の汁が消えて無くなったので、それ以来使っていない。今は、内面にびっしりと塩が浮き上がっている。

 ここまでが東郷神社での教室であった。一年の期限と、勤めの関係から泣く泣く陶芸教室を跡にした。(13.03.15仏法僧)