サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

13.年寄りの自慢話

 家内からよく「その話何十回も聞いた」などと云われる。無礼である。三十年以上も連れ添ってきたのだから、二三回、いや五回位、もう少しは云ったかもしれない。ただその時の話の勢いで出てきたもので意識してそうしているわけでもない。もっともこの意識しないというところが多少問題でもあるが、その場合でもその時のシチュエイションを考えて表現を変えたり、言葉を変えて云っているはずであるが、話の筋としては同じだから、聞かされている方にしては同じ事と思っているのかもしれない。

 だいたい物事には過去・現在・未来とあるが、それほど多くの人と接する機会のなくなった老人にとって、毎日、語るべき出来事などそんなにあるはずがない。それに若者にとっては過ぎ去った過去よりも、これから至る未来のほうがはるかに多いが、我々高齢者には語るべき未来などそれほど残されていない。「来年こそは・・・」なんて云っていた者があっけなく逝ってしまった話などいくつも転がっている。

 河島英五さんの「てんびんばかり」ではないが我々の過去と未来を天秤ばかりに載せると過去のほうに傾くのは自然の道理というものであり、重きを置いたほうの話題が主体になるのは当たり前と云いたいのだが、それならそれでもう少し話に変化があってもいいのだが、意外とそれがない。

 考えてみると人間なんて多かれ少なかれ、生きてきたパターンは大同小異でありそれほど波乱万丈変化に富んだものではない。だから云って同じ話をするから自慢話をしているかと云えば決してそうではない。

 ただ、日常会話の中で、同じテーマが繰り返されるようになったらそろそろ語るべき未来が少なくなってきたことを自覚すべきかも知れない。もっとも斯く云う「雑言」も誰かが「あいつまた同じことを言っている」などと噂しているかも知れない。いや、きっと云っている。(00.3仏法僧)