サイバー老人ホーム−青葉台熟年物語

122.自給自足

 最近、農業に従事する人が増えているそうで、結構なことである。そもそもこのサイトを立ち上げる時に、現役引退者が農業に復帰することを予想して「熟年帰農」というページを設けて過疎化に悩む地方の農村とこれらの復帰者の橋渡しをするページを作ろうとしたが技術的に未熟だったために断念したいきさつが有り、人事でなく嬉しく思いのである。

 しかも新しく農業に復帰する人の中にはかなり若い人も含まれているらしくてなおさら嬉しい。何故今になって経済的な競争力もない日本の農業に取り組む人が増えたかといえば、経済的理由よりもっと人間的なことに根ざしているようである。
 テレビで紹介された若者の場合、家族の年間所得が50万円ということで、今時の女子高校生にも馬鹿にされるような金額であるが、これはもはや所得や職業という範疇ではなく、自給自足というものである。それでもなお農業に拘るのは人間としての尊厳に根ざしたこの国の有り方にあると思っている。

 先月、NHKスペシャルという番組の中で「要塞町の人々」という番組があった。「アメリカで今、「要塞町」と呼ばれる高級住宅地が次々と出現している。周囲を塀で張り巡らし、出入りを警備員が監視し外部の人間の出入りを閉ざす町である。

 住人の多くは、IT企業、投資会社のエリートビジネスマンやベンチャー企業の経営者など、90年代、空前の好景気で富を築いた新富裕層。アメリカの過酷な 競争主義を勝ち上がってきた「勝ち組」である。」ということであるが、ここに住む人たちを見て「負け組」の僻みと取られても仕方がないが、羨ましさより人間の欲望のおぞましさを感じたのである。

 勿論この「勝ち組」の人たちは優れた才覚と、努力で競争社会に勝ち抜いてきた結果であるが、番組で紹介があった巨万の富を得て40代で引退した人と、ここに住むために昼夜を分かたず働いている夫婦を見て、言い知れぬ空しさを感じたのである。

 戦後、日本経済も一貫した右肩上がりの成長を続け、アメリカほどではないとしても競争社会を突っ走ってきたのである。その先兵として多くのサラリーマンが我が家も省みず必死に働いてきたのであるが、バブル経済の崩壊という名の元にこれらの努力が跡形もなく消えてしまったのである。

 後に残ったのはリストラだ、倒産だと不景気風が吹き荒れ、未だに収まるところを知らない。企業とはそこに働く人々は勿論、その企業に関わる全ての人々のためにこそ存在理由があるはずであるが、今は企業のために人が有り、ためにならないと判断されればいとも簡単に切り捨てられる。

 人は誰でも貧しさには耐えられるが、心の荒廃した社会には絶えられないと思っている。
 昔、我々の若い頃「都会に憧れ」て、それぞれに故郷を後にしたが、今の都会に憧れるものとは何があるかと考えてみたが、便利さ以外には何もない。便利さとは豊な蓄えがあって始めてその効用を発揮するものであるが、今となってはその便利さが煩わしく感じるほどの世相である。

 今、日本では経済活動ばかりでなく、結婚、子育て、教育、更には家族制度、強いては国の機構の全てが崩壊したとまでは言わないまでも、どうしようもない閉塞状態に陥っている。

 戦後、アメリカによってもたらされた自由は、確かに日本のあらゆる面の近代化を推進し、国民の生活も飛躍的に向上したが、経済の停滞とともに世の中の様々の矛盾が噴出している。
 今、日本のあらゆるところで、その指導的立場にある人や、機構が保身と責任回避にあけくれ、日本という国をどのような方向に進むのかビジョンが見えてこない。そもそも法律や規則と言うものは、自由競争社会における突出を防止するためのものであるが、昨今は国や地方の機関の責任回避の道具に堕している感がする。

 どうせ当てにもならない世の中であれば、全てのしがらみを断って大自然の趣くままに生きることのほうがどれだけ良いかと誰でも思うのも当然である。
 この時期、「農村に憧れ」るのは、必ずしも経済的破綻だけではなくこの閉塞状態からの回避であって、田山さんの「いつもといっしょ」に出てくるホームレスの人たちも同じではないかと勝手に考えている。

 勿論、日本人である限り、この国とのしがらみを全て断つとことは出来ないが、少なくとも国を挙げてのタカリ経済から抜け出すことが肝要であり、そのための精神的に自給自足経済を目指さない限りこの閉塞状態からは抜け出せないと思っている。

 然らば農村に入って、どのような未来が開けてくるかと言えば、少なくとも家庭における家族との絆と言うものは取り戻せると考えている。勿論、家族の絆だけで飯が食えるわけでもないが、地域との繋がりと言うものは都会のそれとは大いに異なると思うのである。国家の成員は国民であり、それを束ねるのは日本には古くからあった日本固有の文化である。

 司馬遼太郎さんが、「文化とは、基本的には、人とともに暮らすための行儀や規範の事で、出生後の家庭教育や村内での教育によるもので、特定の集団(例えば民族)において通用する特殊なもので不合理なものである」といっている。例えて言うならば、饅頭の餡子という文化を文明という薄皮が覆っているようなものであるということらしい。

 ただこの文化があるために、人々にその国に住む安堵感をもたらすものであるらしいが、日本は戦後の自由と経済発展によってこの固有の文化を見失ってしまったのが、今にして誰をも自信喪失状態にした元凶だと勝手に思っている。

 インターネットに、若者が、過疎の農村で「北登」という柴犬と、「八木橋」という山羊の親子とともに休耕地を耕し、様々な工夫を凝らしながら、自給自足の生活を送っている「Dush村」というサイトがある。
 どのくらいのアクセスが有るか分からないが、「農村に憧れ」る若者達のほかに、最近は職人を目指す若者や、この雑言「手造り日本」で示したように今までの競争原理を無視した様々な動きが出ているようで、ようやく競争社会に対する反省も出てきたようである。

 年金生活者としたら、いささか天に唾をしたような話であるが、今更この国のしがらみから抜け出すことが出来ないのであれば、せめてこの国の機構の及ぼす影響の最も離れた所で、自然の懐に抱かれて、お天道様の動きに身を委ねた生き方をしてみたいと言う憧れを感じる昨今である。(03.06仏法僧)

参照:「Dush村」http://www.ntv.co.jp/dash/village/index.html