サイバー老人ホーム−青葉台熟年物語

99.頑張れジジイ!

 9月7日付の読売新聞に、「吉本興業が、中高年を対象にした「S−1グランプリ」を今月から年末にかけて関西一円で開く」というコラム記事が載っていた。中高年が自動車レースをするのかと早とちりされては困る。

 このS−1グランプリと言うもの、中高年を対象としたカラオケ選手権である。この程度のもの、今更、珍しくもないようだが、このねらいと言うのが良い。「中高年のスターを発掘し、高齢化社会を活性化させたい」ということで、高齢者のイベントとして定着させてと言うことである。

 文句なく大賛成である。おまけに、この「S-1グランプリ」の優勝者には、「本人や家族に100万円の「葬儀サービス」が提供される」と言う、なんとも人を食った副賞までついて、いかにも吉本興業らしい企画で嬉しくなる。

 しかも優勝者にはCDでの歌手デビューが約束されているから凄い。久しぶりに新聞記事で腹の底から愉快が湧きあがってきた。ただ、愉快と言っても決してこのイベントを馬鹿にしたわけではない。さすがに吉本興業、一本、笑いを取ることを忘れていない。

 考えてみると、間もなく国民の四分の一が高齢者になろうと言う時、我々シニヤ世代の実像と言うのが見えてこない。もともとこのサイトも元気なシニヤ世代の活動をテーマに取り上げたが、世の中、何だと言えば汚い、臭い、更にはボケなどという芳しからぬ印象が先に立ち、正統な評価を欠いているきらいがある。

 勿論、旅行だ、山登りだとひたすら元気な年寄りも強調されるが、もう一つ我々シニヤ世代に生活の潤いがないのである。生活の潤いとは、生活の質を高めることであり、生活の中に笑いや楽しみを持つことである。そうすることにより細胞の力を高め、元気を取り戻すことになるのが医学界の定説になっている。

 今のシニヤ世代は、自分の殻に閉じこもり、自己表現の少ないが、もう少し日本文化に影響を及ぼしても良いのではないかと勝手に考えている。このことは今まで散々世の荒波にもまれ、もうたくさんだという気持ちは分からないでもないが、こう言うときだからこそ日本文化の再生に力を発揮しなければ誰がすると思うのである。

 昔は「うるさいジジイだ」というようにジジイはうるさがられ、それだけで存在感があったのである。尤も、自己表現のありすぎるのは老害であって、政治や企業トップにはこうした傾向もないではないが、テレビなど見てもシニヤが描かれていないし、シニアに通ずる番組なども少ないような気がする。

 かつて黒沢明監督の映画では実に個性的な俳優が脇役と言ってもほんのチョイ役でいぶし銀のように輝いてやいていた。このチョイ役が強烈な印象になって黒澤作品の厚みを増していたように思っている。ドラマでも音楽でも全世代を網羅するところに安心感もあり、重厚さを増すと言うものである。

 最近のコマーシャルで「頑張れ若造!」というのがあるが、指し当って我々の場合は、「頑張れジジイ!」ということになる。このジジイの中には女性の同年代も含まれるが、この際、あえて触れないことにする。

 勿論、今でも第一線で活躍しているベテランスターも多いが、これらの人は初めからスターと呼ばれた人で、今、忽然と現れたわけではない。今度始まる「S−1グランプリ」には是非とも参加してグランプリを獲得したいと思うのである。

 こう思っていると俄然ファイトが沸いてきた。思いはフランク・シナトラかイブ・モンタンのような重厚で渋いイメージを想定しているのだが、あれほどの貫禄もないし、人前に出ると固まる傾向があるから、さしづめ東海林太郎さんと言うことになる。
 ただ、頭髪があれほど豊でなく、いわゆるテニスのアンドレ・アガシスタイルの歌手というのはあまり見かけたことがないが、先のサッカー・ワールドカップで坊主頭もけっこう市民権を得ているのでまんざらでもないかもしれない。

 ただし、衣装は黒の燕尾服より断然ラメ入りかスパンコールのキンキラキンが良い。やる限りはやはり華やかな振りも入れなければならないが、氷川きよし君と言うわけには行きそうもない。体の動きは今の身体上の都合もあってディック・ミネさんのイメージだが、せめて瀬川英子さん並には行きたいと思うのである。

 何だ音符も読めないくせに!と思われるが、昔から民謡も浪花節だって音符なんてものはなかったのである。昔は車座になれば手拍子で唄が飛び出し、そうやって歌は覚えたのである。春先から多少残った言語障害のリハビリに続けているインターネットカラオケがこう言うときこそ役に立つとひそかに期待している。

 これだけ揃うと、あの「若造」達の意味不明の詩に、ねぎのような節のないメロディー、更にニワトリの首をしめたような声のボーカルに大いに対抗して、キンキラキンの舞台衣装に身をつつんで、朗々と唄い舞台を飛び跳ねるのも満更でもないと想像するのである。

 ただ選ばれたとしても舞台の中央なんて出すぎたことは期待しているわけではない。何も今となって、蚊蜻蛉のような美男美女が大勢いる中で、我々如きジジイが、表舞台の中央なんてことは考えていても口には出さない。それがジジイの良識と言うものである。ジジイはジジイらしく、端の方でチョイ役でも良いからほんの少し活躍できる場があれば世の中、もう少し落ち着きが戻るのではないかと謙虚に思うのだけである。

 そこで、世のジジイ諸君、この際、是非とも参加して、日本文化の再生と、出来れば葬儀一式を今から準備しておこうではないか。これが世のため、人のためと言うものである。(02.09仏法僧)