34.異端者
赤瀬川さん風にいうとM菱自動車のクレーム隠しが大問題になっている。聞くところによると30年前から行われていたというのである。直接人命にかかわるものだけにけしからん話である。けしからん話ではあるが、少し変でもある。
なにもM菱自動車がやったことが正しかったというのではないが、30年前となると最高責任者であるK添社長が30歳の頃で、まさに少壮の敏腕社員としてバリバリと活躍しいた頃になるだろう。
そもそも日本の車のリコール制度も国際水準に達し始めたこの頃にできたのではないかと思う。ということはM菱は始めからリコール制度を無視していたことになる。消費者をないがしろにするのもはなはだしい暴挙といえるが、当時この制度がスタートするにあたっては当然、場合によってはその会社の死命を制する問題だけに、監督官庁である通産省や業界としても喧喧諤諤の議論をしているはずである。
その結果、行政指導とは言わないまでも、業界としての了解事項としてリコール制度がスタートしたはずである。ただ、当時もその後も企画・経理畑を歩いてこられたK添社長はこのことを知る由もなく、まさに青天の霹靂とはこのことであろう。その後この問題にいつから参画したか知らないが、組織を持ってなるM菱で権限委譲された事項にどこまで関与できたか不明である。
それに30年のながきにわたって続いてきた仕事は、たとえそれが誤っていたとしても誰がそれを誤りであると指摘できるか疑問である。当時入社した人でさえも今は50歳を超えていることになる。サラリーマン生活30年で、入社したときから指示されていたやり方が誤りであったなど考える人がどこかにいるかと問えば否である。
また、この事件の具体例としてのマスコミの取り上げ方も尋常ではない。九州でのあるユーザーのブレーキ故障を取り上げていたが、事故後の被害者との示談までして事件を隠そうとした意図があったかに報道されていたが、数年前に製造物責任法ができてからはこれは当たり前のことである。
更に、問題のブレーキ故障についてであるが、ブレーキというのは自動車の中でも直接人命に影響するものであるだけに、最重要保安部品と位置付けられているのである。ところが、このブレーキというのが直径僅か2センチ足らずゴムホースでつながっていることを知っている人は以外と少ない。
これは構造的に見ても地面の振動を車輪で吸収する限り、ゴムホースのような柔軟性のあるものでなくては成り立たないのである。 したがってこのゴムホースは実用範囲の何十倍もの強度と耐久性を持たせて、更に過酷な耐久性試験を繰り返し行っているのである。
それでも不幸にして、故障が起きるのであるが、その確率は何百万分の1あるかないかであるが、それでも起きたら大問題である。その予防処置として車検制度があり、これによって事故を未然に防いでいるのである。この厳しい条件に適合するためにホースメーカーも更に厳しい品質管理をしているのであるが、それゆえに日本にはこのブレーキホースのメーカーは3社だけで、ニューカマーの出現の余地はない。
今回はこうした中での不幸の偶然が重なっておきたもので、リコールに相当する構造上や強度上の欠陥によるものか自己裁定にゆだねられているリコール制度では判断の分かれるところかもしれない。
それならば、M菱に何も責任がないかというとそうではない。事故は厳然として起こっており、人を傷つけているのである。ただ、今回の問題が聞くところによると内部告発によって表ざたになったところにM菱の体質の問題があったと思う。
内部告発というのは自分の勤める会社に対する裏切りであり、一見卑劣な行為のように思えるが、そうしなければならなかったその会社の土壌に問題があるのである。かつて、M菱の中興の祖といわれた今は亡き名社長のD氏(一字だからこうなる)の回顧録を新聞で読んだことがある。その中でD氏は「異端のない組織のM菱が好きだ」とかかれていた。昔から「組織のM菱」「人のM井」といわれてきたが、M菱はそれほど組織を重んじる企業グループである。勿論、M菱に人がいないわけではない。むしろキラ星のような方々が佃煮にしたいほどたくさんいるはずである。
ただこれらの人がある年齢になると例外なく「組織の人」になるのである。ごく例外が、異端者となってその存在に気がつかないように存在しているのであって、高いところからは決して目に付かないのである。このことから、D氏は「異端なき組織」と思われたのかもしれない。
今回の事件が、M菱には不運であったかもしれない。しかし、30年前にこの制度がスタートしてから時代は大きく変わったのである。どのように変わったかといえば、行政の基に護送船団よろしく、企業の育成を優先していた時代から、自主努力で国際競争に生きていかなければならない時代になっているのである。
今消費者は何を望んでいるか、他社に打ち勝つ企業戦略は何かといえば、企業の育成を優先していた時代の感覚では当然生き残れないのである。その意味ではM菱は時代を読み間違えていたといわれてもやむを得まい。「今までこれでよかった」では通らないのである。 異端のない社会などありえない。古来、独裁者の社会と競争のない組織は生き残ったためしがないといわれる。組織というものは水と同じで停滞するとすぐに腐敗する。組織は「擬人化」し、権限も思想も自己防衛機能さえ持つのである。
異端者が組織を維持する上で有害であっても、社会全体から見て有益なら進んで取り入れる度量があってこそ組織は活性化する。
M菱が今後生き残る道は何かといえば、残念ながら今の体制である限り否定的である。ただ、唯一の道は朝刊紙の全面謝罪広告にもあったように、「開かれた会社」になることであるが、体制の中にあってはこれを確立することは困難である。
安住の殻を自ら破り、自ら痛みを受け入れる覚悟で火の出るような努力をしない限り、「組織」の殻など破れない。「開かれた会社」とは社会に向かってだけのことではない。社内でも同じで、今後の社員の価値は学閥でも閨閥でも門閥でもない。企業の存続は、消費者に、広くは社会に対する貢献度によってきまることを認識し、それに向かって全社員が行動しなければ今回の屈辱はぬぐえないのではないか。(00.9仏法僧)