サイバー老人ホーム

251.いい湯だな!2

 江戸時代後期、町儒者寺門静軒の「江戸繁昌記」に、「混堂(銭湯)」と言う一節が有り、当時の銭湯の様子が詳細に書かれている。

 まず、当時の銭湯の人気は並々ならぬもので、夜明け前の空はまだ暗い内から銭湯の前に押し掛けて戸を叩き、番頭の悪たれを叩く。

 やがて、戸が開くと「魚が群れに集まるように、浴客は後から後から続く。睡気がまだ覚めず欠伸をし、目蓋を擦り、頭に手拭を置き、浴衣を脇に挟んで、寝巻きの帯をしないものもいる。

 肩をすくめて腕を上下に動かしている者は、瘡(かさ)の痒みを爪で掻いている者、懐を手探りしている者は、虱をひねっている者などが入り交じって湯に入る。頭は、陰嚢にぶつかり、尻は眉や額の上に、背は背と触れ合い、足は足と交わる」

 「朝湯は沸きやすく、熱いと言って子供は泣き、すぐに羽目板を叩き水を出させる。熱いのが好きな人は怒り、出てから「忌々しい」と言う。そうしているうちに、いい湯は急に日向水のようにぬるく成る」

 朝の混雑は、つむじ風が吹きやんだようにぱたりと終り、しばらくは客もなく、番頭は始めて朝飯にありつく。」

 やがて女湯が開き、「下駄の音がからから金を振るい玉を砕くように聞こえ、横丁の芸者は紫の着物の褄を取り、新道の妾は緑の帯を横にたらし、紅を付け白粉を付け足し米はおさんどんを連れ、二人とも必ず番頭から糠袋を買う」

 当時、石鹸などない時代だから、垢すりは米糠を入れた糠袋であった。湯船に使ってから出て長し場で体をあらう。

 「白い顔の紅を拭うと玉子の皮を剥いたよう、おしくも「瑠璃の梅雨」「江戸の水」(人気の箱入り化粧品)を洗い落とし、その余香がにおう。」

 「越中褌は倹約を奨励した老中松平越中守(定信)の公徳に浴する物だが、無知の細民は、これを長くするだけでなく、ちりめんや絹地紫や赤の色を纏う。陰嚢は一身の命の綱、陽茎は一生の大事なれど、是を包むに斯くの如き物を遣い、嚢が裂け、茎が折れる事を案ず」

 やがて日が暮れて、混雑は再び沸き上がる。
 「提燈が煌々として昼間の如し。盗人に備え、高床を設け、番頭を座らせる。水が跳ね、桶が飛び、山が崩れるような騒ぎなり。この時、湯は滑らかにして油の如し。垢を沸かし、油垢を煮る。着物や帯は入り乱れ、虱と虱が食い合って、足の入れ場もない。」

 一方女湯はと言うと、「川と海をひっくり返したような大騒ぎ、乳母とババアががやがや喋り、娘と若い女房とぺちゃぺちゃ話す。隣家の金持ちをなじり、隣近所の悪口雑言、自分の家の新嫁をそしり、はたまた隣の放屁まで残すことなく話す」

 やがて、拍子木が申夜(午後八時)を報じると、さんすけはすぐに湯船の栓を抜く。まだ客は押し入ってくるが、「番頭は急いで湯は終わり」と告げる。

 「人は二回入浴し、大人が八文、糠を買うのに三文使う。熱いのが好きな者、温いのが好きな者、清潔を好む者と様々だが、何れも何度も洗い磨いて汚れを取り光を放つ。されど、心を洗う事が出来るのは何方(いずがた)也や」と嘆いている。

 それでは、当時と風呂代は如何ほどであったかと言うと、「天保府命(幕府の命令)以来、今に至り、八文を定めとし、童形六文、小児四文と成る」。ただ、それ以後も薪高価により、十二文の値上がりしたそうであるが、総じて安かったようである。

 ただ、風呂屋のほうも、正月三ケ日や、二十四節季などには高座前(番台)に春慶塗の大三方を置き、ここに湯賃とは別に、御ひねり(チップ)を載せるようにしていた。この御ひねりは、湯賃十二文に対し、御ひねり十二文で、三方にうずたかく積まれたおひねりを描いた浮世絵などが残っている。

 ところで、風呂と言えば日本各地にある温泉はどうであったかと言うと、意外と歴史は古くない。(08.11仏法僧)