サイバー老人ホーム

250.いい湯だな!1

 日本人の風呂好きは有名だが、これが何時ごろからかと言うとそれ程昔ではない。勿論、昔三都といった江戸・大阪・京都などの大都市は別にして、在方、いわゆる村々に普及したのはつい明治に入ってからである。

 私の子供の頃でも、風呂が各家庭に普及していたわけではなく、隣近所でもらい風呂と言う風習が続いていた。

 この貰い風呂とは、家風呂がある家で風呂を沸かし、家族が皆入った後で、近所の人たちが風呂に入りに来るわけである。第一の要因が、各家庭に風呂が普及していなかったと言う事もあるが、風呂を沸かすための薪の節約と言うこともあった。ただ、これはこれで結構楽しい事であり、囲炉裏を囲んでお茶を飲んだり、様々な話に花が咲いた。

 ところで、風呂と言うのが日本に出現したのは何時ごろかと言うと、余り定かではないが、瀬戸内海沿岸で、洞穴の中で火を焚き、その後濡れた筵を敷いて湯気の立ちこめた蒸室の中で、体を洗い清めたと言うのが最初らしい。その名残か、今でも山口県には風呂に関するメーカーが多いようである。

 白鳳時代(七世紀)、壬申の乱で、大海人皇子が大友皇子と戦ったときに背中に矢を受け、京都八瀬の釜風呂にはいり、傷をいやしたと言う言い伝えが有る。

 この釜風呂も釜の中で火をたき暖めた所で、濡れ筵を敷いて体を温めると言う、大昔の風呂は大方蒸し風呂であったらしい。

 そもそも、風呂に入ると言う事は、もともと浴佛功徳経と言うお経に入浴によって七病を除き、七福を得ると言う教えが有り、寺院に設けた大湯場に人々を招きいれる慈善事業であったらしい。

 その後東大寺の重源上人というお坊さんが、東大寺に現存する日本最古の「大湯場」を建てて、人々に入浴習慣を各地に普及させたと言う事である。この時期、周防(山口県)・備前(岡山県)が東大寺に寺領だった関係から、その活躍の中心になったと言う事である。

 ただ、現在の大湯屋は延応元年に再建された物で、大釜で湯を沸かし湯船に移す式のもので、唐派風作りの入口を持った建物である。
 このときの唐派風作りの入口というのが、その後の銭湯などに受け継がれていると言う事である。

 それから更に時代は下がり、鎌倉時代の後期に入り、「日蓮御書禄」と言う書物に、文永三年(1266)の年号と共に銭湯の文字が見えることから銭湯の始まりはこの頃であろうといわれている。

 ただこの頃は相変わらず、蒸し風呂が主体であり、禅宗の初学入参禅者のための日常の行動を懇切丁寧に示した「入衆日用清規」には、禅宗の入浴作法が懇切丁寧に示されている。

 それによると、「浴具を右手で持って、浴室に入ると本尊に焼香礼拝してから、浴主(浴室を司る僧)に会釈し、袈裟法衣を脱いで竿に掛ける。

 そのとき衣服は決められた順番に脱ぎ、浴室内は静粛に、笑いや大声は厳禁である。湯水も多量に使用は禁止、湯は立ってかけてはならない。

 体は顔から洗い、上から下へ徐々にあらい、僻所(陰部)は洗うことはできない。湯水を傍らの人には掛けない。桶を叩いたり、足を掛けたりしてはならない。

 体の腫れ物が有るときは後の順番にする」となっていて、とても「いい湯だな!」などと浮かれてはおれない。

 ただ、この中で、湯水のことがかなり具体的に書かれており、蒸し風呂と言うより、「取り湯式」であったことが伺える。

 ところで、無類の風呂好きで知られる江戸の銭湯の始まりは天正十九年(1591)、・北条氏政の家臣三浦浄心なる人物が、江戸風俗などの随筆集「慶長見聞録」に「伊勢与市と言いし者、銭瓶橋のほとりに、銭湯風呂一つ建る。風呂銭は永楽一銭なり」、この風呂「熱々の雫や、鼻詰りて・・・」と書かれているので蒸気風呂だったのだろうと推測されている。

 この頃から、「戸棚風呂」と言うのが出現している。「戸棚風呂」と言うのは、戸棚のような狭い風呂場に、湯浴と蒸気浴を同時に行うもので、肩までどっぷりと言う願いを一歩近づけたのかもしれない。

 本来、風呂と言うのは茶道の風炉から転じたものらしいが、風呂は蒸し風呂であり、湯屋は湯あみであったらしい。それが、戸棚風呂の出現により、風呂屋と湯屋の混同が始まったと言う事である。

 幕末の江戸風俗の雑学者の、川喜多守貞の「守貞満稿」によると、「風呂屋、京阪にて風呂屋と言い、江戸にて銭湯あるいは湯屋」と言ったと記されている。

 正徳五年(1715)の「京都御役所向大概覚書」によると、「洛中湯屋七十一軒、風呂屋六十二軒」となっていて、風呂屋には、塩風呂・釜風呂・居風呂等有ると言うがどの様な者か分からない。

 「守貞満稿」によると、「京阪は市中の大・中はもとより、小戸(小さい家)に至る迄自家に浴室あり。大・中戸は必ずこれあり。小戸あるいはこれあり、あるいはこれなし。裡(うら)貸家の分、稀にこれあり。多くはこれなし。斯くの如き故に、風呂屋戸数、江戸に比して甚だ少なきなり」であったと言う事である。

 そもそもなぜ江戸っ子が風呂好きかといえば、江戸は風が強く埃が立ちやすい、しかも水が少なく打ち水も出来ないため、一日たつと体中埃だらけになったからである。

 しかも武家屋敷は内風呂が有ったが、建設途上の町屋では、可なりの商家でも風呂のある家は少なく、取り分け江戸庶民の八割が長屋暮らしであり、こぞって銭湯に出かけた。銭湯は一町に少なくとも二軒はあったと言うことである。

 然らば、この銭湯なるものが、どのような物であったかと言うと、当初は江戸・上方とも混浴であったが、 寛政時代(寛政改革)風紀上の理由から禁止となっている。その主な理由は、銭湯の構造上の理由であったと思われる。

 まず入口は、江戸も大阪も同じで、男女に分かれていた。ところが中に入ると、江戸は脱衣場から湯船まで分かれていたが、大阪は一緒である。

 入った所に板の間(脱衣場)があり、続いて中央に竹を渡した排水溝があり、それを挟むようにして板張り、または石張りを漆喰で固めた流し場があり、その奥に柘榴口と言う入口があった。

 この柘榴口の表面に自慢の装飾したり、上方は奈良東大寺大湯屋の唐破風の細工をしていたと言う事で、今の湯船の富士山の絵はその名残と言うことらしい。

 ただ、この柘榴口というのは、高さがせいぜい三尺(約九十センチ)、客は風呂に入る場合、腰をかがめてと言うより、這いつくばって入らなければならなかった。なぜこのような物を必要としたかと言うと、戸棚風呂では一度に大勢の者が入れないし、浴槽内の湯気を逃さないためであった。

 「守貞満稿」によると、「槽(浴槽)の柘榴口より高きこと大略槽中に座して柘榴口の外見えず」、しかも湯気が立ち込め殆ど何も見えないわけで、「男女の入り込み湯(混浴)が多く、風紀上も好ましくないことも起こり、混浴禁止」になったと言う事である。

 この暗闇に乗じて不埒な行為に及んでいる浮世絵なども残っていて、時には人殺しまであったと言うから風呂に入るのも命がけである。

 浴槽は九尺四方で、湯は甚だ熱く、「その頃は風呂不鍛錬の人数多(あまた)ありて、あら熱の湯の雫や、息が詰りて物も言われず、烟(けむり)にて目も開かれぬなどと云いて、風呂の口に立ちふさがり」ていたようである。

 流し場では、呼び出し口に湯汲み男または女が控え、上がり湯(岡湯)の桶を渡していたと言う事である。

 この上がり湯の桶は、正月・上巳・端午・七夕・重陽の節句に、風呂屋の下男に銭二百文を与えたものには、「毎浴の時、右の小桶と留桶に上がり湯を汲みだす。これを留桶の客と言う」ということで、別扱いにしていたらしい。

 しかも「天保前は外見を好むの徒(やから)、銭を多く与えて留桶に定紋を漆書きさせ、あるいは記号の烙印を刷るもあり」ということで、いかにも見栄っ張りの江戸っ子気質をくすぐるような事である。今で言う高級クラブなどのボトルキープのような事であったのかもしれない。(08.10仏法僧)