サイバー老人ホーム

228.「百姓のうた」4

 「百姓のうた」によると、建屋は地元民の所有であるが、経営者や、鬼のような極悪非道の検番(今の工場長)は、東京から来ていたと言うことで、幾分地元民の肩身の狭さも免れたような気がする。物語は、少女の手紙の形式の私小説になっている。

 当時、ようやく資本主義の萌芽の時代であり、生糸と言うのは日本にとって、柱石とも頼む貴重な産物であり、これの帰趨によって国家の経済が左右するほどのものであった。同時に、その原料となる繭相場も、養蚕農家にとっては、生き死に関わる問題であった。

 上田自由大学の講師謝礼4円が、繭1貫目の値段となっていたが、この「百姓のうた」と同じに収録されている「狼」に寄れば、かつては繭は1貫目12円以上もしたと言うことである。それが世界的大恐慌と大企業の出現により、4分の1以下に下落して百姓は塗炭の苦しみの中にいたのだろう。

 また、当時、百姓が雇われて畑仕事をした場合、1日1円50銭だったといわれているが、工女と呼ばれていた女工たちの賃金はたったの25銭であった。それでもまともに払ってもらえれば良いほうで、この物語のように、多くの工場が未払いの上に、経営者は逃亡を決め込んだと言うことである。

 その後、「百姓のうた」について兄姉と話し合ったところ、仰天するような事実が分かってきた。それは、明治28年生まれの私の母が、一時期村のキカイで働いていたと言う話を聞いたと言うのである。

 そのキカイが、「百姓のうた」に出てくるキカイと同じであったかどうか定かではないが、さして大きくもない集落に、二つ以上もキカイが有ったとも思えない。

 一方、「百姓のうた」と同じ本に収録されている「狼」は、「作者の激情は、はっきりと「共産主義」の理論的立場で鍛え上げられている」と言うことである。

 この「狼」は、製糸工場の経営者の側から、恐慌の中で家内工業から大資本に移行する、日本における資本主義体制の矛盾や、ロシア革命後の労働事情などを書いた内容である。

 この本について、後に日本共産党議長野坂参三をして「これほど面白い本はない、日本に帰ってきて、初めて小説らしい小説を読んだと」言わしめている。

 この本は、殆ど平仮名で書かれていて、人名のみカタカナと言う不思議な書き方で、実名小説といわれている。
 これは、高倉テルさんが主宰する「日本文学研究」の中のカナモジ会の表現方法と言うことであろう。「おとしめられた方言をふんだんに使って、農民達の生活の中の想いを」文章として表現すると言うことであった。

 多分、尋常小学校程度の学力の、女工たちや、百姓にも、分かる革命理論を解説する意図で書いたのかもしれない。

 昭和8年、高倉テルさんは特高警察に逮捕され、入獄するが、その後保釈され、神奈川県大磯の親戚の家に身を寄せる。この頃から、箱根芦ノ湖の「箱根用水」の取材を始め、作家活動に重点をおいた活動をしている。

 この「箱根用水」は、寛文年間(1670)、江戸の町人友野与右衛門が幕府や藩の力を借りずに、同じ町民や村人の力によって、箱根芦ノ湖湖尻に長さ12丁もの掘り抜き水路(トンネル)を開発し、下流の多くの不毛の地を新田にしたと言う事実に基づく物語である。

 この物語では、高倉テルさんの共産主義者との臭いは殆ど感じられない。それまで箱根用水の事は殆ど知られていなかったと言うことで、「友野(与右衛門)が弾圧で悲惨な最期を遂げたと言う言い伝えが根拠の無いものでないことの証を(中略)、どうしても、箱根用水と言う文学作品の形にして、ニッポン人全体に訴えなければならないと言う責任を、しみじみ感じた」ためであった。

 その後も逮捕、保釈を繰り返し、「当時、私の家は貧乏のどん底で、妻が、僅かな着物を売ったり質に入れたりして、やっと費用をつくってくれた」なかで取材活動を繰り返し、昭和17年秋、発電所の掃除のために、用水が一日とめたのを利用して、地下水路を調査している。

 その後も逮捕・保釈を繰り返し、終戦の昭和20年10月まで、獄中生活を送る事になる。昭和23年、雑誌「大衆クラブ」に、7回に別けて「箱根用水」を載せ、その後党務が忙しく中断していたが、昭和41年、改めて出版してる。

 高倉テルさんの作品の文学的価値などをとやかく言える立場ではないが、読んだ全作品に、現在でも通用する推理小説的手法がとられていて、野坂参三をして、「これほど面白い小説はない」と言わしめた理由がわかるような気がする。

 高倉テルさんの執筆態度は、貧困層の中にある様々な出来事を話し言葉に忠実な小説の形で著し、理解させようとしたのではなかろうか。

 「箱根用水」で、友野与右衛門の妻リツが金策に駆け回っている頃、金貸し山城屋が、「私は間違っていた。神様はこの用水を成し遂げろといっていらっしゃる。私の技術をこれに役立てろと命じていらっしゃる」、それで「神とはどんなもので、どこにいるのかとたずねたら、神はどこにでもいる、あなたの体にもいる」と応えたと書かれている。

 ここには烈々たる共産党の闘士の姿はどこにも見あたらない。多分、「箱根用水」の後半部分は高倉テルさんの生き様そのものではなかったろうか。

 昭和21年衆議院選挙で立候補して当選するが、昭和23年には占領政策違反容疑で上田署に留置されるが、ハンストを行い無罪・釈放になっている。
 その後、昭和25年参議院議員選挙に立候補して当選するが、同年、GHQによってレッドパージにより追放される。翌年、国外に逃亡し、昭和44年まで足掛け9年間中国・ソ連などの国外に過した。

 高倉テルさんの生まれたのは、明治24年と言うことで、私の父の2年後である。勿論、貧困に喘いだ私の父などとは比べるべくもないが、父の生きた時代がどんな時代であったかを思うとひとしお感慨を覚えるのである。

 私がまだ小学生の頃、この話を聞かせていただいた、当時まだ青年だったY老などが中心になって、村の子供達に版画を教えた時期があった。杏村や山本鼎の考えが、あの寒村にまで届いていたのかどうか分からないが、それが信州と言う山国の風土であったのかもしれない。

 その後、私が高校生の頃、私の兄が、神川小学校の教師をしていた時期があり、短い間神川村で兄と下宿したことがある。
 当時は、上田自由大学や、金井正などの名も知る由もなかったが、時により散歩した神川のほとりでが、もしかしたら、高倉テルさんや、金井正も岸辺に腰を下ろし、熱を帯びた文学論を戦わせていたのかもしれない。

 また、教師であった今は亡き兄の終の棲家は、「狼」の主人公のショウタローの実家と同じ諏訪市高島町であり、時代は別として、何故か貧困に明け暮れた我が家にとって奇妙に符合するところが多い人である。

 ただ、下世話な言い方をすれば、決して生き方が上手だったとは思われないが、高倉テルさんは、「わたしは、自由大学の生徒や農民や労働者と、次第に深くふれあい、結びついていった。
 そして、それがわたしのものの見方、考え方を目に見えて変えていった。それらの農民や労働者の生活、その急激な変化(大恐慌)による極端な窮乏化は、かつて受けたことのない激しさでわたしを揺るがし、わたしを教育し、それまでの浮薄な人生観を打ちのめした」と自ら語っておられる。

 事の真偽は別にして、今私のふるさとに残る、かつていたいけない女工たちが、ガラス窓越しに望郷の思いで故郷の空を眺めたであろう建物も、やがては取り壊しの運命にある。

 ただ、これが菊池寛など同じ時代の文豪たちの原作の物語の舞台であったなら、果たしてこの建物をどのような感慨を持って眺めるであろうかと、ふと考えるのである。

 高倉テルさんは、昭和61年(1986)4月2日、すい臓ガンのため東京都昭島市の自宅で、私の父より十年も長命の九十四歳の生涯を閉じた。郷里大方町にある墓碑面には「タカクラ」とのみ刻まれているそうである。

 そして高倉テルさんがなくなって、3年後の平成元年11月に、ベルリンの壁が壊され、更に2年後にソ連体制が崩壊した。大正6年10月革命勝利以来69年、高倉テルさんの人生を掛けた社会主義体制は雲散霧消したが、高倉テルさんは、この時をあの世でどのような思いで迎えたのだろうか。

 「ひとすじの道 ほのかなり 冬木立」(高倉テル)

(07.08仏法僧)

参考文献:「上田自由大学とその周辺」、「百姓のうた・狼」、「箱根用水」