サイバー老人ホーム

227.「百姓のうた」3

 それから、2年後の昭和3年に上田自由大学は再建されるが、その間、高倉テルさんは、各地の農民運動を指導している。上田自由大学でも、以前は中農層以上の青年達であったが、高倉テルさんとともに農民運動に参加した貧農層の青年も多く参加するようになった。

 ただ、上田自由大学にとっても、高倉テルさんにとっても不幸だったのは、自由大学創設の中心だった土田杏村が、長期にわたる肺結核で昭和9年44歳の生涯を閉じたことである。

 以後上田自由大学は、実質高倉テルさんの自由大学として運営されているが、更に、昭和2年3月、講師の一人であった山本宣治が右翼によって暗殺される事件があり、これを契機に高倉テルさんはマルクス主義者への傾斜を深め、官憲当局の厳しい監視を受けるようになる。上田自由大学内でも、高倉テルさんと、猪坂の間で微妙な意見の相違も現れた。

 しかも、昭和5年の大恐慌によって、信州一円の養蚕農家は壊滅的な打撃を受け、聴講者である農村青年が、2円ないしは3円の聴講料を払って、講義を聴きに行く青年は殆んどいなくなった。

 そして、昭和3年1月、上田自由大学は安田徳太郎の「精神分析学」の講義が最後の講義となって、自由大学運動は自然消滅している。

 ところで、山本宣治とは、京大理学部在学中に産児制限運動や性科学の確立のために努力し、昭和2年の第1回普通選挙に京都2区から労農党候補として立候補し当選した。

 「種馬、種牛の様に人を産児の器械と見做して居る」と優生学を正面から批判した数少ない科学者であったと言うことであるが、最近の政治家には聞かせてやりたいような話である。

 また安田徳太郎は、京大医学部在学中に山本宣治と行動をともにし、大学卒業後も、無産階級運動に医療の面から協力者であり、戦後『日本の歴史』『性の歴史』などベストセラーをあらわした医師で、社会運動家である。
 この山本宣旨と安田徳太郎とは従兄弟関係にあり、更に高倉テルさんの妻津宇は徳太郎の妹である。

 ただ、この事件を契機に、高倉テルさんの講義に「学習を超えた社会主義運動」が持ち込まれたかといえばそうではなかった。特定な思想から自由の講義であり、自由大学の枠組みを逸脱していなかったといわれている。この点、批判的に見ていた猪坂本人も「この敬慕惜しからぬ恩師」に対し後に反省している。

 ところで、「百姓のうた」は、昭和5年に「都新聞」に66回にわたって連載されたが、最初の計画よりも縮めて打ち切らなければならなかったと言うことである。この頃から、治安維持法による左翼思想化の追求が厳しくなる。

 それでは、高倉テルと言う作家が、どういう作家であったかと言うと、大正8年「改造」に発表された「砂丘」と言う作品が最初と言うことである。
 高倉テルの名を作家として認めさせたのは翌年発表した「孔雀城」と言う作品であったと言うことだが、勿論これらの作品が読んだことがない。

 歴史ものとしてはきわめて本格的な作品であると激賞され、一躍文壇の寵児としての幸運が約束されたように見えたが、事実はこの出世作を名残として、以後高倉テルの名前は雑誌から抹殺されたのである。

 そこにはしかるべき事情があるはずであるが、当時の消息通によると、当時の某流行作家が、高倉テルに対する反感から、その雑誌発表を妨害したからだといわれている。

 この時、「孔雀城」は、印刷までされ、発表間際になっての契約破棄で、つまり掲載の拒否であったということである。

 高倉テルは、文壇への第一歩でこの限りない不快を味わい、それ以後どんな意味でも一切の文壇的な関心を放棄して、信州別所温泉に移り住み、日本の作家としては特異な生活を送る事になる。

 それでは、高倉テルを、そのような境遇に陥れたのは誰かと言うと、京大時代、ともに机を並べた菊池寛であったといわれている。その理由などについては、その後高倉テルは、多くを語らなかったと言うことであるが、いわゆる世の秀才間にあるライバル意識が、その動機のひとつであっただろうといわれている。

 大正末期から昭和のはじめにかけて、日本の文壇は、菊池寛を「大御所」と呼んで、多くの作家が直接・間接にかれの庇護を受けて作家の地位を保ったといわれており、この大衆作家の前にひざまずいていたと言われている。
 菊池寛の作品といわれる、『不壊の白珠』は川端康成、『受難華』は横光利一による代筆であるといわれ、当時の文壇の傾向が伺える。

 菊池寛は、香川県高松市の生まれであり、高松中学を卒業後、東京高等師範に入学したが、授業をサボタージュしたのがもとで除籍になっている。
 その後一高を目指し、早稲田・明治大学などで学び、明治43年に一高に入学したが、一高卒業を目前にして、友人佐野文夫(後の共産党幹部)の窃盗の罪を着て退学。菊池寛は同性愛者であったため、佐野に対する同性愛感情が関係していたと言われる。

 その後、京都大学の選科に入学し、高倉テルさんなどと交わる事になる。更に卒業後、時事新報の記者を経て、私費で「文芸春秋」を創刊したところ大当たりし、富豪となったと言う経歴の持ち主で、文士と言うよりむしろ事業家であったのだろう。

 この俗物性に反逆するような、高倉テルの出現は、当時も文壇にとって大きな脅威であった。
 ある一流雑誌が、高倉テルの作品を発表するならば、以後菊池寛とその一派は執筆を拒むと脅かされたり、高倉テルが、ある書店から、企画を依頼されると、菊池寛はあわてて対抗する企画を作って、より資本力のある出版社と結んだりした。かくして、高倉テルさんは文壇と決別し、民衆の中へ入って行ったと言われている。

 高倉テルさんの大衆性は、菊池寛と違って、働く民衆に突き動かされ、その民衆の考えや、悲しみや怒りに表現を与える事によって生まれたといわれている。

 ただ、高倉テルさんの、「大衆に仕える」文学は、かつて日本文壇では「俗流大衆コース」として排斥されたが、左翼文学といえども、創作活動の形式において、今なお菊池寛的な文壇支配の軍門に頭を下げている現状こそ反省すべきだとも指摘された。

 ところで、「百姓のうた」はこのような環境に中に作られた作品で、この作品が発表されたときは、まだ共産主義者の立場が熟さなかった時期の作品であった。

 高倉テルさんは、後に述懐しているが、「私は、書物や思想からではなく、周りのお百姓さんたちとの生活の中で、何時しか共産主義者となっていった」そうで、昭和12年発表の「自由大学運動の経過とその意義」と言う論文の中で次のように述べている。

 「自由大学は、最後まで、直接宣伝扇動を目的とする講義は行わなかった。(中略)自由大学には、それらの演説会だけでは満足しないで、もっと深い知識を求める人々が集まっていた」と書いていている。

 こうした貧しい農民や、女工たちと膝を交えて話し合ううちに、これら「真理に飢えたる魂に対して健全なる糧をもたらす機関が必要」と考えるようになり、左傾化の方向を強めていったのだろう。

 当時の受講者で、後に地域の指導者になった金井正などが、上田自由大学の講義が「地域にとってその時々でどのような実践的な判断をする事がもっとも好ましいか、問わず語りにその身の処しかたに対する示唆を与えてくれた」と言われている。(07.08仏法僧)