サイバー老人ホーム

226.「百姓のうた」2

 それでは、「上田自由大学」と言うのはどういうものだったかと言うと、大正10年頃から昭和5年ごろまで、長野県各地で展開された民衆の自己教育運動と言うことである。

 「上田自由大学は大正デモクラシー期の世上の中で生まれた。しかし、それに先立って、小県哲学会が生まれ、自由画と農民美術運動が山本鼎を中心に上田地方で起こったのが始めである。」

 現在、上田城址の中に顕彰碑が建っているが、この山本鼎は、愛知県の生まれ、鼎16歳のとき、漢方医の父が長野県小県郡神川村大屋(現上田市)に医院を開業、一家は移住し、鼎にとって上田は第二の故郷となったと言うことである。

 その後、東京美術学校で版画を習得し、その後フランス・モスクワで学び、帰国後、鼎の提唱した自由画教育運動は全国的に教育現場で迎えられた。長野県では当時盛り上がっていた自由教育・個性教育思潮があることもあり、自由画教育運動は急速に普及したと言われている。

 自由大学に先立って、山本鼎の自由画教育運動、更に小県哲学会が生まれ、これに普通選挙を求めた運動信濃黎明会などが母体となって自由大学構想に発展している。

 この自由大学は、哲学と児童自由画、農民美術運動と言う三つも活動を中心としているが、児童自由画と農民美術運動は上田に隣接する神川村の金井正と山越脩蔵の二人の青年であったと言うことである。特に屈指の養蚕農家であった金井は、この運動に惜しげもなく私財を投じており、当時、家一軒が五百円で買える頃、二万円もの巨費を投じたと言われている。

 当時自由大学は受講者自ら運営され、受講料は、一講座(一週間を標準)で三円ないしは四円であり、当時の繭一貫目に相当したと言うことで、可なり高額であり、参加者の主なものは可なりの富農であった事が伺える。

 それにも増して、当時の教育制度と言うのは、富裕層に限られたもので、地方における学問に飢えた農民達が、この欠陥を打破しようと真剣に取り組んでいたのだろう。

 小県哲学会・児童自由画、農民美術運動は、その後上田自由大学に変わるが、大正9年9月、「当時売り出し中の文明批評家・土田杏村に講演依頼をした」のが、やがては高倉テルさんにつながるのである。このときの講演内容が、「一日目が杏村創意の文化主議論、残り四日間が西欧哲学概観で『新カント哲学』の紹介」で、聴講者に深い感銘を与えたと言うことである。

 翌年2月に第2回目の講演が行われ、この講演の成功を期に、自由大学構想に発展し、山越、金井、大学運営のために猪阪直一が加わり、それに杏村を交えた四者会談で、自由大学構想がまとまったといわれている。

 この頃、杏村は「8月22日頃から南佐久に参ります」と山越宛の手紙に書かれており、あるいは我が故郷にも立ち寄ったのかもしれない。

 そして、この年の9月には、杏村自らが、「信濃自由大学趣意書」を起草して、その趣旨を次のように述べている。

 「学問の中央集権的傾向を打破し、地方一般の民衆がその産業に従事しつつ、自由に大学教育を得る機会を得んがために、総合長期の講座を開き、主として文化的研究を為し、何人にも公開することを目的とする」

 当時の、「自由大学教育理念」は「自己教育」が大前提であり、「人格の自立」を目指したものでなくてはならないと言うことであった。

 ところで、杏村によれば、「社会的創造への参画は、文化領域ばかりではなく労働の部面も行われる。我々はすべて一人の例外もなく生産的労働に従事すべきものとして生を享けている」と言うことであって、学校教育は本来、労働とともに「終生的」に生涯行われるべきであるといっている。

 そして、「上田自由大学」の最初の講義が行われたのは、大正10年11月、後に同志社大学教授恒藤恭の「法律哲学」であった。ちなみに恒藤恭は、高倉テルさんとほぼ同時期に京大で学んだ法哲学者で、芥川龍之介の無二の親友であった。

 また、高倉テルさんと、京大時代の同期生には菊池寛などもいて、後の高倉テルさんの人生の帰趨の大きな影響を及ぼす事になる。

 当時、この講演会に参加したのは、50人ほどであった。主に中等教育を受けた農民や小学校教師であったが、中には60才を超えるものや、芸者などもいたといわれている。

 その姿を見て、恒藤は、「一種悲壮な感」に打たれ、「心理と自由とに向かって熱烈な欲求を持っている人々と、それを取り巻いている簡素な、薄汚い建物の内部との対照がその建物に入った瞬間に、私の眼にはっきりと映じたためではなかったろうか」と言っている。

 当時の講演は、1日3時間1講座平均5日間のものであったが、人文科学、法律哲学、社会学、政治学の他、文学論など、学問の分野で新しい気運を代表する人々が招かれた。その中で、文学論を受け持った高倉テルさんの講義がもっとも人気があったと言われている。

 しかも、夫々の講演内容は、「大阪商大(現大阪市大)の1年分の講義を5日で終わってしまう」ほどの内容の濃いものであった。おそらく、各講師陣も、燃えるような意気込みで取り組んだに違いない。

 上田に始まった自由大学構想は、その後各地に反響し、信州、越後など各地に自由大学が設立された。大正14年には各地の自由大学の連絡機関として、「自由大学協会」が上田に作られた。この時期、高倉テルさんは、各地で講演を行っており、まさに絶頂期であったろう。

 ところが、各地に広がる中で、思わぬ破綻が生ずる。それは、夫々の推進母体の性格の違いであった。
 取り分け伊那自由大学の「自由大学における教育を、いかなる宣伝も批判も受けない」と言うものから、「主旨が民衆の自治」を主張したのであれば、民衆のための教育機関として進むべきとして、杏村の考えを批判し、講座内容も上田と違って社会学系の講座が多くなったと言うことである。

 そして、設立後、僅か5年で、閉鎖に追い込まれるのである。(07.07仏法僧)