サイバー老人ホーム

225.「百姓のうた」1

 先日久しぶりに故郷信州に行ったとき、郷土史家のY老にお目にかかる機会があり、思わぬ話を聞いた。

 私の生まれ故郷は、今から50年前に故郷を後にする時でも、戸数60戸ほどの集落だった。この小さな集落に、大正の頃まで従業員が100名を越える製糸工場があり、その後、日本一高いところを走る小海線の延長工事により工場は撤去されたと言うのである。

 しかも、当時、女工たちが使っていた宿舎が、私の生家と田んぼを隔て隣の建物と言うのである。そう言われて改めて見ると、この家、当時からこの地域では珍しいガラス窓の家であった。

 信州の農村と言うのは昔から養蚕農家が多く、家の造りはそのため、養蚕に適した造りになっていた。今度改めて見てみると、二階にも四つに仕切ったガラス窓が入っていて、明らかに人が居住するためのつくりとなっている。

 しかも、Y老との話の中で、この製糸工場(当時はキカイと呼んでいた)をモデルとした小説「百姓のうた」が出され、作者は、高倉テルさんと言うことである。凡そ何もない信州の片田舎に、小説の舞台になるような物があるとは夢にも思わなかった。

 帰ってきてから、早速インターネットの古本屋で探してみると、なんとあっけなく見つかったのである。
 早速購入して読んでみると、かつて「女工哀史」言われた時代の内容で、尋常小学校を出た、まだいたいけない少女の悲劇であり、あまりにシリアスな内容に、故郷の輝きがいっぺんに翳ってしまうような内容だった。

 ここに出て来るキカイは、「百姓のうた」には、「信越線小諸で降りて、軽便鉄道で二時間ほど山の中へ入ったここが終点です。西側に八ヶ岳が屏風のように突っ立って、そのふもとを千曲川が真っ白の瀬になって流れて」と書かれていて、この水がやがては少女の故郷の越後に信濃川になって家の前を流れていると言う設定である。

 「人家は千曲川を挟んで両岸にぎっしりと詰まって、その真ん中に一つ大きなつり橋がかかっていて」これを見る限り、わが故郷の村であることは間違いない。
 「停留所は川の東側に有り、大きな建物はたいてい東側にあるが、しかし瓦屋根はごく僅かで、大抵は板屋根の上に大きな石がいっぱい乗せてあり」、まさに私の子供の頃の記憶どおりである。

 この軽便鉄度(後の小海線)が小海まで開通したのは、大正8年であり、その後昭和8年にその先に延長されている。

 この小説が書かれたのが、昭和5年と言うことであり、昭和5年と言うのは昭和金融大恐慌(昭和二年)の真っ只中であり、この小説に書かれた内容は、かなり極端ではあるとしても、当時は多かれ少なかれ同じような出来事があったのだろう。

 ところで、この作者の高倉テルさんと言う方は、戦後最初(昭和21年)の選挙で私の故郷の選挙区で日本共産党から衆議院議員に立候補して当選されている。この当時私はまだ小学校2年生だったので、タカクラテルという覚え易い名前と言うことで記憶に残っている。

 この選挙で、女性の参政権が最初に認められた選挙で、この名前から女性と間違えて投票したと言う人が沢山いたと母から聞いたことがあった。その後、高倉テルさんは、GHQによるレッドパージにより追放されたと言うようなことを聞いたが、以後は私の記憶から遠ざかっていた。

 ところが、60年ぶりにまた高倉テルさんの名前を眼にする事ができ、一体高倉テルさんとはどんな人だったのか、もくもくと興味が湧き上がってきたのである。

 早速インターネットで調べてみると、この高倉テルさんは、生まれは高知県幡多(はた)地方の大方町の生まれと言うことである。この幡多地方と言うのは高知県の南西部、四万十川や足摺岬などを囲う地域である。

 大方町教育委員会による生家跡の看板には、「戦前から非合法活動に追われながら、農民や労働大衆の文化向上のために格闘してきた文学者タカクラ・テル(本名・高倉輝豊)は、明治24年(1891年)、大方町浮鞭のこの地に生まれた。京都大学英文科卒ご、国語国字問題を研究のかたわら農業生産力向上のための共同組合・水利問題などについて研究を深め、昭和十五年(1940年)長編小説「大原幽玄」を出版した。」となっている。

 それでは信州との繋がりはどうなっているかと言えば、京大卒業後一時京大の嘱託講師になっていたが、土田杏村らの誘いに応じて、信濃自由大学(後の上田自由大学)に講師として参加、上田市別所温泉に在住して、長野県の教育界に深く係わっていたと言うのである。

ここで、この土田杏村(きょうそん)とはどういう人かと言えば、「明治24年、新潟県佐渡郡の生まれ、本名茂(つとむ)。尋常小学校4年で教員検定試験全科目合格するも年齢不足がわかり取消される。

 補習科在学時に嘱託教員に反発し同盟休校の反対運動を起こす。殆どの学童は学校に戻るが杏村は独学する。
 16歳の時に新潟師範学校(現新潟大学教育学部)にトップ合格。東京高等師範(東京教育大学の前身)で丘浅次郎から博物学を学んだ後、京都大学哲学科に進み西田幾太郎に学ぶ。
 以後東京で民間学者、フリージャーナリストとして多彩な評論活動を展開する。」という大変な人である。

 昔、神童と言う言葉があったが、文字通り神童を地で行ったような人である。多分高倉テルさんとの交わりは、京大在学中のことであったのだろう。

 「大正10年より個人難誌「文化」を創刊し、文化主義の論陣を張る。特に長野県では、教師に大きな影響を与え青年層にその運動が広まっていった。「長野自由大学運動」はその運動の結晶体として、わが国の地域青年運動史に大きな足跡を残している。」

 ここで、土田杏村の招きで京大嘱託と言う職をなげうって、「上田自由大学」に移ってきたと言うことらしい。(07.07仏法僧)